伝道者の書 黙想4【与えられたも恵み】221214(火) 枝川愛の教会
伝道者の書 3:16~223:16 私はさらに日の下で、さばきの場に不正があり、正義の場に不正があるのを見た。3:17 私は心の中で言った。「神は正しい人も悪しき者もさばく。そこでは、すべての営みとすべてのわざに、時があるからだ。」3:18 私は心の中で人の子らについて言った。「神は彼らを試みて、自分たちが獣にすぎないことを、彼らが気づくようにされたのだ。」3:19 なぜなら、人の子の結末と獣の結末は同じ結末だからだ。これも死ねば、あれも死に、両方とも同じ息を持つ。それでは、人は獣にまさっているのか。まさってはいない。すべては空しいからだ。3:20 すべては同じ所に行く。すべてのものは土のちりから出て、すべてのものは土のちりに帰る。3:21 だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に昇り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。3:22 私は見た。人が自分のわざを楽しむことにまさる幸いはないことを。それが人の受ける分であるからだ。だれが、これから後に起こることを人に見せてくれるだろうか。 ソロモンは、人間と人間が構成している世界が不完全であることを告発しています。さばきと正議というのは、悔しい人の最後の拠り所ですんが、裁く人が悪を行い、正義を行わなければならない人が不正を行うので、その世界に希望を置くことはできません。真実と正義より利益が先立つのが世界です。神様はやがてその欲深い権限を裁かれます。 ソロモンの虚無は続きます。土から来たから土に戻るというこの真理の一喝を誰が拒否できるでしょうか。ある物理学者は、死ぬことが不思議ではなく、生きていることが不思議であると言いました。宇宙は実に死んでいる状態ですが、私たちが生きているここだけに一時的かつ制限的に命が与えられているということです。物理から見ても死は当たり前であり、悔しいことではない、むしろ生きていることこそが奇跡です。ということでソロモンはもう一度虚無主義から現実主義に変わります。人生はその虚無の自覚の上、自分に与えられた一日を喜びをもって生きるのです。