ピリピ人への手紙 黙想5【肉に頼る人】230116(月) 枝川愛の教会
ピリピ 3:1~93:1 最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。私は、また同じことをいくつか書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなたがたの安全のためにもなります。3:2 犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい。肉体だけの割礼の者に気をつけなさい。3:3 神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。3:4 ただし、私には、肉においても頼れるところがあります。ほかのだれかが肉に頼れると思うなら、私はそれ以上です。3:5 私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、3:6 その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。3:7 しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、3:9 キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。 1節の「最後に」ということは、パウロが強調して結論的に言いたいということですが、それは「主にあって喜びなさい」いうことです。パウロのこの切ない願いを肝に銘じなければなりません。私たちはいかなる方法を使っても福音の感激を現在の喜びとして楽しまなければなりません。それだけが救い信仰を証明することです。パウロは、それをどんなに強調して繰り返してもそれは過言ではないと言い、ピリポの聖徒にもそれが最も安全なことだと言いました。 パウロは救いの感激を現在の喜びとすることのために割礼問題に言及します。ユダヤ人出身のキリスト教徒、もう少し具体的に分類すると、福音のまともに理解ができてないユダヤ宗教の優越論者、ユダヤ出身の既得権者、宗教的な階級主義者がいました。彼らは非ユダヤ人に割礼を求めていました。パウロはそれに怒っていたのです。福音の普遍性を踏みにじる無知のせいだからです。それでパウロは彼らに向かって「犬」と「悪い働き人」という言葉を用いました。 パウロ自身は誰よりも高い階級的地位と既得権を持っていました。しかし、パウロはキリスト・イエスを知っていることのすばらしさに比べてすべてがちりあくたにすぎないと告白します。もちろん信仰のためには知識が必要であり、それは大切なことです。しかし、知識があるからといって、信仰があることではありません。信じなければ聞いても聞こえないし、見ても見えないからです。神学を勉強した人や神学者の知識が必ずしも信仰に比例するとは思いません。神学は教会のためのものでなければならないと思っています。福音は自分自身を詳しく観察することで明確に理解できる普遍的なものです。 教会は信仰がないから滅びることではなく、信仰があるという人々の階級意識と特権意識のために滅びます。牧師だから、長老だから、または有力者だからといって特別であると考える人々は、パウロの厳しい叱責を受けなければなりません。そのようなことに息が詰まって窒息するのは福音です。