ピリピ人への手紙 黙想6【前のものに向かって身を伸ばし】230117(火) 枝川愛の教会
ピリピ 3:10~213:10 私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、3:11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。3:13 兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、3:14 キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。3:15 ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。3:16 ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。3:17 兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。3:18 というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。3:19 その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。3:20 しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。3:21 キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。 走馬加鞭といって走る馬に鞭を打つという言葉があります。糞畑に転がる豚を走らせるために鞭を打つことはありません。働いている人にもっと多くのことをさせるようになっていて、働かない人に大切なことはさせないです。神様もそうです。働かない人は本来持っていた賜物も失い、働く人はより多くの能力と賜物を受けて力を得ます。それには限界がありません。信仰の服従による知恵の賜物は、自分が知らなかった領域まで広げることになるからです。社会には責任を負わないために仕事を回避する社員が多いと言われていますが、彼らの能力と機会は結局に縮小され、社会と組織はそのような人を回避することになるでしょう。 恵まれたいとよく言われますが、当たり前のこと、信仰のないところには恵みが与えられません。福音のために走っているところでは、どこを刺しても恵みがあふれます。しかし、動かず、活動せず、溜まってしまった福音は、力を発揮できません。聞いただけの福音では物足らないです。神様の御言葉をただ説教という形に依存しますが、実際に説教の言葉を聞くことはしません。もし説教がなければ、神様の御言葉である聖書を自分の知性と霊性で読み始めると思います。牧師という人は信じることができず、説教は聞いたり、しゃべったりしましたが、それも同じです。自分の口に入れて噛み砕いてない御言葉は1日経ったら覚えません。 長い間に信仰生活をしてきても、自分の唇で伝えた福音がなければ福音は理解しできていません。信仰生活の必須要件として伝道が含まれるのは、人々を集めるためのことではなく、福音を伝えなければ福音が何なのか分からないためです。伝えてみれば、自分が福音をどれほど表面的なものであるかに気づきます。パウロはピリピ教会にさらに熱心に走ることを勧めます。教会が肥満になり、福音が剥製されている時代に、パウロの福音のための走りの決意を読み、恥ずかしくなります。 18節でいう「キリストの十字架の敵」というのは教会の外の人のことではありません。福音が活動しなくなる主な原因を提供する人です。彼らの特徴は19節が語ります「その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。19」福音が動かずに止まってしまうことは福音を伝えなければならない聖徒が経済活動と悩みに没頭しているからです。一人から一人に福音が伝わるところには必ず聖霊がおられます。私もそこにいてほしいのです。