Ⅰサムエル 黙想3【子どもリスク】230125(水) 枝川愛の教会
Ⅰサムエル 2:12~212:12 さて、エリの息子たちはよこしまな者たちで、主を知らなかった。2:13 民に関わる祭司の定めについてもそうであった。だれかが、いけにえを献げていると、まだ肉を煮ている間に、祭司の子弟が三又の肉刺しを手にしてやって来て、2:14 これを大鍋や、釜、大釜、鍋に突き入れ、肉刺しで取り上げたものをみな、祭司が自分のものとして取っていた。このようなことが、シロで、そこに来るイスラエルのすべての人に対してなされていた。2:15 そのうえ、脂肪が焼かれる前に祭司の子弟がやって来て、いけにえを献げる人に「祭司に焼くための肉を渡しなさい。祭司は煮た肉をあなたから受け取らない。生の肉だけだ」と言うので、2:16 人が「まず脂肪をすっかり焼いて、好きなだけお取りください」と言うと、祭司の子弟は、「いや、今渡すのだ。でなければ、私は力ずくで取る」と言った。2:17 このように、子弟たちの罪は、主の前で非常に大きかった。この人たちは主へのささげ物を侮ったのである。2:18 さてサムエルは、亜麻布のエポデを身にまとった幼いしもべとして、主の前に仕えていた。2:19 彼の母は彼のために小さな上着を作り、毎年、夫とともに年ごとのいけにえを献げに上って行くとき、それを持って行った。2:20 エリは、エルカナとその妻を祝福して、「主にゆだねられた子の代わりとして、主が、この妻によって、あなたに子孫を与えてくださいますように」と言い、彼らは自分の住まいに帰るのであった。2:21 主はハンナを顧み、彼女は身ごもって、三人の息子と二人の娘を産んだ。少年サムエルは主のみもとで成長した。 レビ族の祭司の息子はそれを受け継いで祭司長になります。エリの息子たちは祭祀になりますが、使命を学ぶ前に宗教的な特権意識を先に学びました。そして基本の人間的、倫理的な教育もされていませんでした。エリは子たちが不良であることを知っていましたが、教育はしませんでした。日曜礼拝で言いました「パイデイア(παιδεία)」の不在です。エリが神様のものを盗んでいる息子たちの手足を折って教育していたら、後日に子どものゆえに自分の首が折れて死ぬことはなかったと思います。 不良なエリの息子たちとは違って、まともなサムエルは対照的です。しかし、それも表面的なことでだけはないでしょうか。サムエルは士師時代を終え、王政時代を開いた人物です。時代が頼りにして尊敬を受けていた人ですが、後のサムエルの息子たちも変わりはありません。8章を読むと、サムエルの息子たちの不正行為が出てきます。彼らも特権意識にとらわれて無駄なことをしました。エリもサムエルもみんな「子どもリスク」を持っていました。 サムエルは堕落したサウルを廃位し、ダビデを立てましたが、ダビデの息子たちも悪さには負けません。堕落の程度で言えば、サムエルやエリの子たちとは比べものにもなりません。兄弟間で強姦し、父の妾を強姦し、父を殺して王になるとしました。信仰の歴史に名乗りましたが、子ども教育に成功した人はいません。 ところが、アイロニに悪だったサウルの子、ヨナタンだけが立派です。ここに一つの共通点を見つけました。エリとサムエルの子たちは自分たちの父に従って祭祀長になり、ダビデの子たちはダビデに従って王になります。その狭間に何かの問題が生じたのです。これらの子たちの悪さは、国家と礼拝、すなわち政治と宗教まで私有化できるという錯覚から始まったものです。 政治権力を世襲し、教会ですら権力を作り、それを世襲する、それを恥じとも思わない人間の時代と違いはありません。いわば父のチャンスを使うわきまえのない者らによって、国も教会も危険です。 サウルの子ヨナタンは王になることを拒否しました。だからヨナタンだけが人らしさを守っています。社会的に、経済的に、信仰的にも子どもを親と分離することこそ、子どもが神様の中で一人の人格として生きることができます。