Ⅰサムエル 黙想34【執着が生み出す怒り】230309(木) 枝川愛の教会
Ⅰサムエル 20:24~3420:24 ダビデは野に隠れた。新月祭になって、王は食事の席に着いた。20:25 王は、いつものように自分の席、つまり壁寄りの席に着いた。ヨナタンはその向かい側、アブネルはサウルの横の席に着いたが、ダビデの席は空いていた。20:26 しかし、その日、サウルは何も言わなかった。「思わぬことが起こって身を汚したのだろう。きっと汚れているためだろう」と思ったからであった。20:27 しかし、その翌日、新月祭の二日目にも、ダビデの席は空いていた。サウルは息子のヨナタンに言った。「どうしてエッサイの子は、昨日も今日も食事に来なかったのか。」20:28 ヨナタンはサウルに答えた。「ベツレヘムへ行かせてくれと、ダビデが私にしきりに頼みました。20:29 『どうか、私を行かせてください。氏族の祝宴がその町であります。長兄が命じているのです。今、あなたのご好意を得ているなら、どうか私を行かせて、兄弟たちに会わせてください』と言ったのです。それで彼は王の食卓に来ていないのです。」20:30 サウルはヨナタンに怒りを燃やして言った。「この邪悪な気まぐれ女の息子め。おまえがエッサイの子に肩入れし、自分を辱め、母親の裸の恥をさらしているのを、この私が知らないとでも思っているのか。20:31 エッサイの子がこの地上に生きているかぎり、おまえも、おまえの王位も確立されないのだ。今、人を遣わして、あれを私のところに連れて来い。あれは死に値する。」20:32 ヨナタンは父サウルに答えて言った。「なぜ、彼は殺されなければならないのですか。何をしたというのですか。」20:33 すると、サウルは槍をヨナタンに投げつけて撃ち殺そうとした。それでヨナタンは、父がダビデを殺そうと決心しているのを知った。20:34 ヨナタンは怒りに燃えて食卓から立ち上がり、新月祭の二日目には食事をとらなかった。父がダビデを侮辱したので、ダビデのために悲しんだからである。 ダビデの予想通り、サウルがダビデの欠席に怒り、ダビデを殺そうとしていることをヨナタンは目撃します。サウルはその過程でヨナタンに怒ります。自分の息子と妻のヨナたンと彼の母親を卑下し、出生を呪うような悪口を浴びせます。ヨナタンがダビデを擁護したという理由です。ダビデを殺してこそ、次の王に継ぐヨナタンの王位が安全であるということです。ヨナタンがサウルにダビデが死ぬほど罪を犯したことがないと話すと、自分の息子であるヨナタンにも槍を投げようとしました。 サウルがヨナタンを愛していないわけではないと思います。サウルはヨナタンの王位を心配しています。しかし、サウルの執着は怒りと言語を節制ができず、それによって最も近い人との信頼と関係を崩しています。歪んだ執着が怒りを生み、その怒りが人格を破壊します。ヨナタンは父親のサウルのダビデに対する病的な憎悪を知り、ダビデが可哀想で、悲しみます。 昨日の水曜読書会で「欲望を節制する」ということと「自分を信じずに神様を信頼する」という内容を読んで一緒に話し合いました。欲望と執着と自己崇拝というのは、人間のやむを得ない運動方向であり、それを制御できるのは神様の御言葉しかありません。止まって神様の御言葉の前で考えを喚起し、人生の方向を転換しなければ執着していた方向に狂ったように走り、怒り、言語と人格と人生が壊れることになります。 ふと、私が怒るすべての瞬間の感情的背景に執着があることに気づきました。無関心であることには怒りません。執着を捨てられなければ人間が壊れます。訪れた春には心にもミニマリズムをしなければならないと思います。花のつぼみがほころびる季節には、しばらくは立ってそれを眺めなければなりません。それさえできない忙しさは離脱した疾走です。御言葉の前に止まって離脱した方向性を正さなければならないと思います。