Ⅰサムエル 黙想35【アドラム リーダーシップ】230313(月) 枝川愛の教会
Ⅰサムエル 22:1~1022:1 ダビデはそこを去って、アドラムの洞穴に避難した。彼の兄弟たちや父の家の者はみな、これを聞いてダビデのところに下って来た。22:2 そして、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。約四百人の者が彼とともにいるようになった。22:3 ダビデはそこからモアブのミツパに行き、モアブの王に言った。「神が私にどのようなことをされるか分かるまで、どうか、父と母をあなたがたと一緒に住まわせてください。」22:4 ダビデは両親をモアブの王の前に連れて来た。彼らは、ダビデが要害にいる間、王のもとに住んだ。22:5 預言者ガドはダビデに言った。「この要害にとどまっていないで、さあ、ユダの地に帰りなさい。」それで、ダビデはそこを出て、ハレテの森へやって来た。22:6 サウルは、ダビデおよび彼とともにいる者たちが見つかったことを聞いた。サウルはギブアにある高台のタマリスクの木の下で、槍を手にして座っていた。彼の家来たちはみな、彼のそばに立っていた。22:7 サウルは、そばに立っている家来たちに言った。「聞け、ベニヤミン人。エッサイの子が、おまえたち全員に畑やぶどう畑をくれたり、おまえたち全員を千人隊の長、百人隊の長にしたりするだろうか。22:8 それなのに、おまえたちはみな私に謀反を企てている。息子がエッサイの子と契約を結んでも、だれも私の耳に入れない。おまえたちのだれも、私のことを思って心を痛めることをせず、今日のように、息子が私のしもべを私に逆らわせて、待ち伏せさせても、私の耳に入れない。」22:9 サウルの家来たちのそばに立っていたエドム人ドエグが答えて言った。「私は、エッサイの子が、ノブのアヒトブの子アヒメレクのところに来たのを見ました。22:10 アヒメレクは彼のために主に伺って、彼に食糧を与え、ペリシテ人ゴリヤテの剣も与えました。」 ダビデはサウルに追われる身になり、サウルによってダビデの家族も身辺の危険に曝されていました。ダビデはモアブ王に自分の家族を亡命させ、保護を求めなければなりませんでした。このような真っ暗やみ人生を送っていたダビデに、数多くの人々が押し寄せて来るようになります。サウルの政治的圧制から逃れてきた人々、経済的に苦しんでいた貧しい人々、悔しい思いの人々がダビデのアドラムの洞穴に集まりました。ダビデは一人の逃亡者にすぎませんが、ダビデを中心にして頼り合う共同体を築き上げられます。 それとは変わって、サウルは国家権力を持っていましたが、ダビデを殺せなかったことを臣下たちのせいにし、疑い、攻めていたため、政治的なリーダーシップを失いつつありました。状況はダビデが劣悪ですが、ダビデには人が集まっていますが、サウルには人が離れていました。 サウルの暴政は依然としてダビデに対する劣等感のためです。有力の家の出身で、見栄えもよく、王にまでなったサウルはなぜそれほどの劣等感に陥ったのでしょうか。エリザベス·テイラーが、一生自分の灰色の髪に劣等感を持っていたということを読んだことがありますが、劣等感というのは比較すると相対的に現れるものなので、サウルにもエリザベス·テイラーにもあり得ます。 人の目を意識しすぎることが罠になります。クリスチャンには、神の子としての健康な自我像が必要です。何かに比べることで落胆してはいけません。自分の固有の価値を誇り、金持ちの前でも、権力者の前でも、知識者の前でも劣等感を持つことはしません。卑屈なことと謙遜なことを区別し、堂々としたことと生意気なことを区別して堂々と歩みながら謙遜である人、そのような自我像の明るい人になりたいと思います。