マタイの福音書 黙想1【香油の壺】230403(月) 枝川愛の教会
Ⅰサムエル 26:6~1626:6 さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、26:7 ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。26:8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんな無駄なことをするのか。26:9 この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」26:10 イエスはこれを知って彼らに言われた。「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました。26:11 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。26:12 この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。26:13 まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」26:14 そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行って、26:15 こう言った。「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。26:16 そのときから、ユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた。 ある女性が香油の壺を割ってイエス様に注ぎました。ヨハネの福音書を参考すると香油を注いだ女性はベタニアに住むマルダとナサロの兄妹であるマリアであり、イエス様に注いだ香油の経済的な価値は300デナリで、労働者の1年分の収入に当たる巨額だそうです。マリアは自分の大切な資産を包装してイエス様にプレゼントしたことではなく、現金に交換してささげたわけでもありません。香油が入った壺を割って再び拾い込めない方法でイエス様に注いで消費しました。そのように消費すると、経済的な価値は残らず消えます。再活用もできません。マリアがこのような非合理的な香油の使い方をしたのは、短い時間でイエス様に抱いていた価値を至急に表すためです。イエス様に仕える機会がそれほど多くないからです。それは私たちも同じです。マリアは霊的な人なので合理性を基準にした消費ではなく、自分の心に従って価値消費をしました。マリアの香油の壺は、旧約の全焼のいけにえを思い出させます。全焼のいけにえというのは、牛や羊をとり、肉を祭壇に乗せて完全燃焼して灰だけを残して焼き尽くす礼拝です。肉が残りません。それをささげものの中で最も献身的なささげもの、全焼のいけにえといいます。心を完全に無にしてささげる礼拝が全焼のいけにえだからです。 香油の壺と全焼のいけにえに対して聖なる浪費と言うことをしばしば聞きますが、聖なるという形容詞をつけても浪費という表現は相応しくないです。なぜならささげた人の心の中には聖なることもなく、浪費もないからです。罪のゆえに悲しみがあるだけで、神様に慕う心があるだけです。聖なる浪費ではなく、切ない愛を最大の表現です。浪費だと思ったのはユダです。イスカリオテ・ユダはこれを無駄だと、浪費だと規定します。財政を効率的に使わなかったと不平を言ったのですが、マリアが自分の香油をどのような用途に使っても、そのためにユダに怒られることではないでしょう。ユダはイエス様の共同体の財政を管理していました。人々がイエス様に献金や寄付をすると、ひとまず自分の手元に入ってきます。ユダの不満はそのお金で多くの貧しい人を助けることができたと言いますが、それは貧しい人を助けるからまず、僕のポケットに入れろということでしょう。愛のために使うお金に効率と合理を問う人の真偽は疑われなければなりません。マリアは本当によくしました。イエス様も彼女を誉めました。すべてが経済的効率に縛られている資本主義のキリスト教に向けて、イエス様は礼拝のことを指摘していると思います。礼拝する時間がない、もったいなくて礼拝に集まらない人、礼拝に使われるお金がない、もったいなくて計算ばかりしている人、いわゆる合理的な消費をすると、自分の魂には効率的でしょうか?「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。15」計算が早くて合理的だったユダはイエスを銀貨三十枚で売ってしまいました。