10月箴言黙想 【思惟不能性】 20231002(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
箴言1:20 知恵は大通りで叫び、広場でその声をあげ、1:21 騒々しい街角で叫び、町の門の入り口で、そのことばを語る。1:22 「浅はかな者よ、おまえたちは、いつまで浅はかなことを愛するのか。嘲る者は、いつまで嘲ることを欲するのか。分別のない者は、いつまで知識を憎むのか。1:23 わたしの叱責に立ち返れ。おまえたちにわたしの霊を注ぎ、わたしのことばを知らせよう。1:24 わたしが呼んだのに、おまえたちは拒んだ。手を差し伸べたのに、耳を傾ける者はなかった。1:25 おまえたちはわたしの忠告をすべてなおざりにし、わたしの叱責を一つも受け入れなかった。1:26 わたしも、おまえたちが災難にあうときに笑い、恐怖がおまえたちを襲うとき、あざ笑う。1:27 恐怖が嵐のようにおまえたちを襲うとき、災難がつむじ風のようにおまえたちに来るとき、苦難と苦悩がおまえたちを襲うとき、1:28 そのとき、わたしを呼んでも、わたしは答えない。わたしを捜し求めても、見出すことはできない。1:29 それは、彼らが知識を憎み、主を恐れることを選ばず、1:30 わたしの忠告を受け入れようとせず、わたしの叱責をことごとく侮ったからだ。1:31 それで、彼らは自分の行いの実を食らい、自分が企んだことで腹を満たす。1:32 浅はかな者の背信は自分を殺し、愚かな者の安心は自分を滅ぼす。1:33 しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住み、わざわいを恐れることなく、安らかである。」 本文によれば、知恵のない者は、浅はかな者。嘲る者、嘲る者。分別のない者、知識を憎む者です。彼らの特徴は、何も聞こうとしない人です。だからといって、皆が不良な態度を持っているわけではないでしょう。謙遜に見えるかもしれないし、知的に見えるかもしれませんが、聞こうとせずに学ぼうともしない人がいます。聞けない人は話せない、読めない人は書けない、学ばない人は教えられないです。 知恵がないから他人の知識を消費します。自分の知識を生産することはできません。他人の説教は聞きますが、自分の御言葉はないです。他人の証しは聞きますが、自分に残った神様の証しはありません。それは考えないからです。考えずに神様に会うことはありません。数多くの時間の内に起きる大小の事件と、それが神様とどのような関係するのかを振り返り、推論し、洞察せずには証しを見つけることができません。 『エルサレムのアイヒマン』で著者のハンナ·アーレントは、アイヒマンの道徳的不感を「悪の平凡性」であると結論付けました。アイヒマンはナチス党員として熱心でした。しかし、それは人を一生懸命殺すことでもありました。彼は誠実に生きていました。それが絶えず誰かを破壊することでした。社会がさせることだけをする人、それに対する意味を質問しない人はアイヒマンになれるということです。アイヒマンは誠実な公務員で、500万人を殺しても罪悪感を持っていませんでした。それが「思惟不能性」です。考えない罪です。 それが現代的な悪の特徴です。。 1990年、日本で高校校門圧死事件がありました。高校の教師が遅刻を取り締まって校門を閉めましたが、一人の女子生徒の頭が挟まれて死亡した事件です。時間とマニュアルに従って決められた仕事を一生懸命遂行しましたが、考えなかったため、幼い生徒は亡くなり、教師は殺人を犯すことになりました。人々はルールとマニュアルに定められた通りにすればそれが正しいと思います。 しかし、それが時には悪になり得るというのが「悪の平凡さ」です。 それが考えない無能、つまり「思惟不能性」です。考えながら生きなければならないと思うのです。耳で言葉を聞くことは、その言葉を頭の中に入れて考えるためかもしれません。