エペソ人への手紙黙想 【古い人、新しい人】20231024(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
エペソ人への手紙 4:17~244:17 ですから私は言います。主にあって厳かに勧めます。あなたがたはもはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。4:18 彼らは知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、頑なな心のゆえに、神のいのちから遠く離れています。4:19 無感覚になった彼らは、好色に身を任せて、あらゆる不潔な行いを貪るようになっています。4:20 しかしあなたがたは、キリストをそのように学んだのではありません。4:21 ただし、本当にあなたがたがキリストについて聞き、キリストにあって教えられているとすれば、です。真理はイエスにあるのですから。4:22 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、4:23 また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、4:24 真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。 パウロは第二のコリントの手紙4章で「外なる人、内なる人16」という区分をし、今日の本文では「古い人、新しい人22-24」という表現をしました。これは出監する収監者に言いそうな新しい人にならなければならないという啓導の言葉ではありません。信仰生活や形が変わらなければならないという行為の変化を求めることではありません。ある時点で外なる人は腐敗し、内なる人は強くなり、ある時点で肉体は古くになり、霊により、新しい人になります。この時点というのは福音が悟られる時点です。内なる人は強くなり、新しい人を着るというのは、福音が自分の人生を支配するようになる時点です。信仰はその時から始まります。 キリスト教の信仰の目的は、より道徳的で、より宗教的に生きることではありません。より良い人になることは福音の希望により、この地で欲張る必要のないという身分の変化を経た人の結果です。良い人とは欲張らない人で、悪い人とは欲張りばかりの人です。すべての罪は欲から生まれます。しかし、内なる人を強くし、新しい人を着る人は、必要と執着を区別する人です。「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。4:22-24」 パウロは第二のコリントの手紙5章で「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。17」と言いました。条件節を留意して読まなければなりません。「キリストのうちにあるなら」新しい人になります。キリストの福音が自分の人生を支配していなければなりません。行為は、そのアイデンティティから生まれる生き方です。パウロが「私は日々死んでいるのですⅠコリント15:31」と言ったのは、毎日殉教の意志を誓ったのではなく、この地で生きるために最善の方法を選んだのです。 幸いなことに、本文は私たちに自分で古い人を殺し、新しい人になれとは言いません。古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着るようにと言いました。「キリストにを着る ガラテヤ3:27」ということです。 心臓と肺部まで自分で改造するのではありません。不可能なことです。福音を考えずに口で話してはいけません。深く考えるのです。信仰生活は福音の結果です。今までたくさん聞いてきました。しかし、聞いたことでは福音はわかりません。自分が新しい人であるということに気づくまで、福音と自分の関係について考え続けなければなりません。