箴言 黙想 【汲み上げる知恵】20231120(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
箴言 20:1~1420:1 ぶどう酒は嘲る者。強い酒は騒ぎ立てる者。これにおぼれる者はみな、知恵がない。20:2 王の恐ろしさは若い獅子がうなるよう。彼を怒らせる者は、代償としていのちを失う。20:3 争いを避けることは人の誉れ。愚か者はみな、争いを引き起こす。20:4 怠け者は冬に耕さない。刈り入れ時に求めても、何もない。20:5 人の心にある計画は深い水。英知のある人はこれを汲み出す。20:6 多くの人は自分の親切を吹聴する。だれが忠実な人を見つけられるだろうか。20:7 正しい人は誠実に歩む。彼の子孫はなんと幸いなことか。20:8 さばきの座に着く王は、自分の目ですべての悪をふるい分ける。20:9 だれが、「私は自分の心を清めた。私は罪から離れ、きよくなった」と言えるだろうか。20:10 異なる二種類の重り、異なる二種類の升、そのどちらも主は忌み嫌われる。20:11 幼子でさえ、何かするとき、その行いが純粋かどうか、真っ直ぐかどうかを識別する。20:12 聞く耳と見る目は、二つとも主が造られた。20:13 眠りを愛するな。貧しくならないために。目を開け。そうすればパンに満ち足りる。20:14 買う者は「悪い、悪い」と言うが、その場を離れると、それを自慢する。 「人の心にある計画は深い水。英知のある人はこれを汲み出す。20:5」 ここで「深い水のような人の心の計画」は重要ではなく「それを汲み出す英知」が重要です。知識が多いからといって必ずしも賢いわけではありません。論文などの文を読んでみると、著者は資料を引用しますが、いざ自分が言いたいことはない場合があります。自分の考えを助けてもらうために他人のことを引用するのですが、自分が言いたいことがなければ、その知識は他人のことを並べることに過ぎません。知識を貸し出していますが、知恵がないから生産的知識につながらなく、ありきたりな一般論を繰り返します。論文は卒業するために書くものではなく、あるテーマの既往研究を自分の論理に発展させるために書くものです。 大学院進学を準備していた時、足りまい日本語で教授にメールを送り、面談をお願いして約束を取りました。入りたかった研究室は学部の専攻とは違っていたので、何を準備すればいいのかわかりませんでした。たまたま朝日新聞を開いて読んでいたところ、当日基準で日本の高齢者関連統計が発表されたのを見ました。その夜、それを引用して研究計画書を書き、翌日に教授に会いました。教授は自分もまだ確認してないほかほかのデータを留学生が研究計画書に反映して持ってきたので、非常に情熱的で情報の速い学生だと思って私を研究室に受け入れてくださいました。 実は日本語の新聞はその日初めて読みました。普段統計データを確認することもなかったのです。ただその日偶然にそれが見えただけ、タイムリーにその情報を使っただけで運が良くて入りたかった研究室に入りました。運が良かったと言いましたが、その頃イエス·キリストを信じたので、運という言葉は恵みという言葉に変えた方がいいと思います。確かに恵みでした。知識が多くても活用できなければ役にも立たず、知識が少なくとも活用するにつれて知的生産量と質は高くなることがあります。知識の大きさよりも、それを有効かつ主要にする使い方が重要なのです。 汲み上げるという表現ですから、井戸に例えています。古代パレスチナで井戸というのはいかに大切なことでしょうか?しかし、むやみに一生懸命掘り下げるといって、水が出るわけではありません。井戸掘削のための科学的探知技術がなかったはずなので、目に見えない知恵を生かして水脈を見つける人が井戸を所有者になります。創世記に見事に井戸を探し、掘り出した人がアブラハムの息子イサクでした。神様が知恵を与えれば、掘る度に水が出てくるでしょうが、そうでなければ無駄な苦労を繰り返します。「人の心にある計画は深い水。英知のある人はこれを汲み出す。20:5」深い水のようなものを汲み上げ、渇いたところを潤す英知があることを祈ります。