コロサイ人への手紙 黙想 【実体と影】20231205(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
コロサイ 2:16~232:16 こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のことで、だれかがあなたがたを批判することがあってはなりません。2:17 これらは、来たるべきものの影であって、本体はキリストにあります。2:18 自己卑下や御使い礼拝を喜んでいる者が、あなたがたを断罪することがあってはなりません。彼らは自分が見た幻に拠り頼み、肉の思いによっていたずらに思い上がって、2:19 かしらにしっかり結びつくことをしません。このかしらがもとになって、からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していくのです。2:20 もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、2:21 「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めに縛られるのですか。2:22 これらはすべて、使ったら消滅するものについての定めで、人間の戒めや教えによるものです。2:23 これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。 レビ記11章には、不正な食べ物を禁じる規定があります。ユダヤ人はそれを徹底的に守っていました。初代教会は、ユダヤ人と非ユダヤ人が共存する教会の中で、食べ物の規定をどのように適用しなければならないか悩みました。食べ物の規定だけでなく、ユダヤ人たちは祭りと安息日を徹底的に守りました。それは当時、宗教的義務でもあり、それはすなわち、信仰の賞罰を決めることでもあると思っていました。宗教が形式に流れると、その宗教の中で信仰は居場所はなくなります。初代教会は果敢に形を破ります。使徒の働き15章を見ると、パウロが1次伝道を終えた後に開かれた第1回エルサレム会議で、非人間的、非道徳的な幾つかの禁忌を除いて食べ物規定は廃止しました。 パウロはコロサイ教会にこのような食べ物の問題や祭りの問題で批判されることに意に介しないと言います。主を信じ、主を従う聖徒なら、全ての人に良い評判を受けることはできません。もし、社会と共有する規則を破った理由で非難されることがあれば、それは恥ずかしいことですが、信仰の理由で社会的に認められず、非難されることがあれば、甘受しなければなりません。損得を考え、卑劣になってはいけません。それは、信仰を証明するチャンスでもあるためです。むしろ喜ぶことです。神様から与えられた食べ物そのものが神様ではなく、神様を記念する祭りそのものが神様ではありません。主日聖守をしなければ救われないことではなく、救われた聖徒が主の日に共同体の礼拝と奉仕を誠実に守ることです。 パウロはこう言いました。「これらは、来たるべきものの影であって、本体はキリストにあります。17」旧約は新約の模型であり、影です。ユダヤ人が守らなければならなかった食べ物と祭りは影であって、その影を作る体、すなわち実体は、イエス・キリストなのです。模型と影で啓示されていたのが律法であり、今はイエス様が体を持って来られたのでその実体が現れたわけであります。だから、私たちは模型と影である律法の文字に従うことではなく、原型と実体であるイエス・キリストを通して学ばなければなりません。パウロが政治的かつ宗教的なテロを覚悟しながらこの非真理を攻めるのは、宗教的な非真理が福音の真理を隠して人々をだましてからです。パウロは聖徒たちに何かを守らせることではなく、キリストの福音に会わせようとしています。世と人は変質する存在です。絶えず福音に回帰しなければなりません。