箴言 黙想 【逆説】20231216(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生
箴言 25:14-28 25:14 贈りもしない贈り物を自慢する者は、雨を降らせない雲や風のようだ。 25:15 忍耐強く説けば、首領も納得する。柔らかな舌は骨を砕く。 25:16 蜜を見つけたら、必要なだけ食べよ。食べ過ぎて吐き出すことのないように。 25:17 隣人の家にあまり足を運ぶな。その人がうんざりして、あなたを憎まないように。 25:18 隣人について偽りの証言をする人は、こん棒、剣、また鋭い矢のようだ。 25:19 苦難の日に、裏切り者に拠り頼むのは、悪い歯やよろける足を頼みとするようなもの。 25:20 心配している人の前で歌を歌うのは、寒い日に服を脱ぐようなもの、ソーダの上に酢を注ぐようなものだ。 25:21 あなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。 25:22 なぜなら、あなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになり、主があなたに報いてくださるからだ。 25:23 北風は大雨を起こし、陰口をたたく舌は怒り顔を生む。 25:24 争い好きな女と一緒に家にいるよりは、屋上の片隅に住むほうがよい。 25:25 遠い国からの良い消息は、疲れたたましいへの冷たい水。 25:26 正しい人が悪しき者の前に屈服するのは、汚された泉、荒らされた井戸のようなもの。 25:27 蜜を食べ過ぎるのは良いことではない。自分の誉れを探るのは、誉れあることではない。 25:28 自分の霊を制することができない人は、城壁のない、打ち破られた町。 聖書は常に喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しむことを私たちに教えています。それがキリストの中で私たちに与えられた力であるからです。 この世は喜ぶ者を見ると悲しみ、悲しむ者を見て喜びます。 彼らは、自分の力が他の人より上に立つことを通して証明されると考えているからです。 そのように、彼らはまるで自分たちが蜜を無限に食べれるように考えていますが、結局自らの限界にぶつかってしまいます。 いくらその力を証明していくとしても、依然として自分の上には他の人が立ち、すべての人の上に神様が立っていることで、彼らの明白な限界が現れるのです。 しかし、喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しむ者にはその限界が存在しません。 自ら高くなろうとしないからです。 むしろ低いところに降りていけばいくほど、一番高いところに立っていらっしゃる神様に近づいていく神秘を体験することができます。 完全な神様であるキリストがそのように生きていったからです。 このような人生は、まるで正しい人が悪しき人の前に屈服するようなものと見えるかもしれません。 自ら高くなろうとする人々が力を持ち、自ら低くなろうとする私たちは限りなく低くなっていくからです。 しかし、私たちはそこで、キリストの十字架を覚えなければなりません。 十字架につけられたキリストを見て、世の中は自分たちが勝ったと思ったでしょう。 サタンの支配の前にキリストが屈服したように見えたでしょう。 しかし、その十字架からの復活を通して、イエスは最も完全な勝利を成し遂げました。 クリスマスまで1週間を控えている今、相変わらず私たちが生きている世界は変わる気もないようです。 しかし、それでも御言葉に従って日々を生きていけるのは、2000年前にこの地に来られたキリストが、完全な勝利を私たちに与えるために再び来られることを約束しているからです。 https://youtu.be/RCudJn-zWJs?si=ENWvXE_JW6Rcq1df