ゼカリヤ 黙想 【火から取り出した燃えさし】 20251016 (木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ゼカリヤ 3:1~10 3:1 主は、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアを私にお見せになった。サタンが彼を訴えようとしてその右手に立っていた。 3:2 主はサタンに言われた。「サタンよ、主がおまえをとがめる。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめる。この者は、火から取り出した燃えさしではないか。」 3:3 ヨシュアは汚れた服を着て、主の使いの前に立っていた。 3:4 御使いは、自分の前に立っている者たちにこう答えた。「彼の汚れた服を脱がせよ。」そしてヨシュアに言った。「見よ、わたしはあなたの咎を除いた。あなたに礼服を着せよう。」 3:5 私は言った。「彼の頭に、きよいターバンをかぶらせなければなりません。」すると彼らは、彼の頭にきよいターバンをかぶらせ、服を着せた。そのとき、主の使いはそばに立っていた。 3:6 主の使いはヨシュアを諭して言った。 3:7 「万軍の主はこう言われる。『もし、あなたがわたしの道に歩み、わたしの戒めを守るなら、あなたもまた、わたしの家を治め、わたしの庭を守るようになる。この立っている者たちの間に出入りすることをわたしはあなたに許す。 3:8 聞け、大祭司ヨシュアよ。あなたも、あなたの前に座している同僚たちも。彼らはしるしとなる人たちだ。見よ、わたしはわたしのしもべ、若枝を来させる。 3:9 見よ、わたしがヨシュアの前に置いた石を。一つの石の上には、七つの目がある。見よ、わたしはそれに文字を彫る。──万軍の主のことば──一日のうちに、わたしはその地の咎を取り除く。 3:10 その日には、──万軍の主のことば──あなたがたは互いに自分の友を、ぶどうの木といちじくの木の下に招き合う。』」   ゼカリヤは幻の中で大祭司ヨシュアを見た。ヨシュアは主の使いの前に立ち、その右にはサタンが立って彼を訴えていた。ヨシュアは聖なる祭司であったが、汚れた衣を身にまとっていた。サタンの告発は根拠のあるものだった。誤りではない。大祭司には「罪」という問題があった。しかし神は彼の欠点について、「火の中から取り出された焦げた木片のような者」と言われた。罪はある。だが神がヨシュアを救い出し、祭司として再び用いようとしておられるのだ。罪の現実を否定せず、むしろ恵みの現実をより深く示される。 神は天使たちに命じ、ヨシュアの汚れた衣を脱がせ、美しい衣を着せられる。イエスはこの旧約の記憶の中から「放蕩息子のたとえ」を語られたのだろう。そしてパウロはその記憶を受けて、「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着なさい」(エペソ4章)と勧めたのだろう。衣が変わるということは、存在の転換を意味する。神が着せてくださる衣は倫理の衣ではなく、存在そのものの衣である。神はヨシュアの罪を否定されなかったが、ヨシュアを見捨てられもしなかった。神は彼を再び祭司として立てられた。サタンが告発していたその場で、神は恵みの判決を下されたのである。これこそが「福音に弁護される法廷」である。 ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』の中で、ジャン・ヴァルジャンはパン一切れを盗んで投獄され、出獄後も前科者の烙印のために世から拒まれる。唯一、司教ミリエルだけが彼を温かく迎え、食事と宿を与えた。しかしヴァルジャンはその好意を裏切り、銀の燭台を盗んで逃げる。やがて警察に捕らえられて戻ったとき、罪は明白であり、告発は正当であった。だがミリエル司教は言う。「これは私があげたものです。しかも銀の皿も差し上げたのに、持って行かなかったのですか。」ヴァルジャンは断罪の場で、かえって歓待を受けた。彼の人生を変えたのは、告発による正義ではなく、慈悲による赦しだった。ゼカリヤのヨシュアと『レ・ミゼラブル』のジャン・ヴァルジャンはどちらも告発されたが、その結末は断罪ではなく、回復であった。 神はヨシュアに清い冠をかぶらせ、その前に七つの目を持つ新しい石を据えられる。そして言われる。「この地の罪を一日のうちに除く。」その「一日」とは十字架の日である。キリストの死と復活によって、世界のすべての罪が一度に取り除かれた。告発は終わり、恵みが始まった。パウロが「新しい人を着なさい」と語ったとき、それは道徳的な強制ではなく、十字架の恵みによって古い衣を脱ぎ、新しい衣、すなわちキリストの義を着る救済の出来事を意味していた。燃え尽きもせず、燃え残りでもない、あの中途半端に焦げた不格好な棒切れのような私にも、神は新しい衣を着せてくださった。 Epilogue この箇所は聖徒の存在論的救いを証ししているが、決して牧師や指導者の道徳的堕落を覆い隠す神学的言い訳として誤用されてはならない。恵みとは罪の隠蔽ではなく、存在の変革である。赦しとは悪の逃げ道を与えることではなく、その悪を正直に見つめ直す場所で新しい実存を築く信仰の行為である。ゆえに恵みは免罪符ではない。罪の現実を耐え抜き、それを超える責任と信頼の決断でなければならない。神は罪を軽んじられない。その深みを通過した者の存在を新しくされるのだ。赦しを語る言葉、信仰を語る言葉が、空しく宙に消え去ることなく、一人の魂の深みに沈潜し、現実を変える真理となることを願う。

스가랴 묵상 【불에서 꺼낸 그슬린 나무토막】 20251016(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

스가랴 3:1~10 3:1 대제사장 여호수아는 여호와의 사자 앞에 섰고 사단은 그의 우편에 서서 그를 대적하는 것을 여호와께서 내게 보이시니라 3:2 여호와께서 사단에게 이르시되 사단아 여호와가 너를 책망하노라 예루살렘을 택한 여호와가 너를 책망하노라 이는 불에서 꺼낸 그슬린 나무가 아니냐 하실때에 3:3 여호수아가 더러운 옷을 입고 천사 앞에 섰는지라 3:4 여호와께서 자기 앞에 선 자들에게 명하사 그…

ゼカリヤ 黙想 【エルサレムの境】 20251015 (水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ゼカリヤ 2:1~13 2:1 私が目を上げて見ると、なんと、一人の人がいた。その手には、一本の測り綱があった。 2:2 私が「あなたはどこへ行くのですか」と尋ねると、彼は私に「エルサレムを測りに。その幅と長さがどれほどあるかを見るために」と答えた。 2:3 すると見よ、私と話していた御使いが出て行った。また、もう一人の御使いが、その御使いに会うために出て行き、 2:4 彼に言った。「走って行って、あの若い者にこう告げよ。『エルサレムは、その中に人と家畜があふれ、城壁のない町のようになる。 2:5 わたしが──主のことば──それを取り巻く火の城壁となる。わたしがそのただ中で栄光となる。 2:6 さあ、すぐに、北の国から逃げよ。──主のことば──天の四方の風のように、わたしがあなたがたを散らしたのだ。──主のことば── 2:7 さあ、シオンに逃れよ。娘バビロンとともに住む者よ。』 2:8 あなたがたを略奪した国々に主の栄光が私を遣わした後、万軍の主がこう言われたからだ。『あなたがたに触れる者は、わたしの瞳に触れる者。 2:9 見よ、わたしは彼らに手を振り上げる。彼らは自分に仕えた者たちに略奪される』と。このときあなたがたは、万軍の主が私を遣わされたことを知る。 2:10 『娘シオンよ、喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。──主のことば── 2:11 その日、多くの国々が主に連なり、わたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住む。』このときあなたは、万軍の主が私をあなたに遣わされたことを知る。 2:12 主は聖なる土地で、ユダをご自分の受ける分とし、エルサレムを再び選ばれる。 2:13 すべての肉なる者よ、主の前で静まれ。主が聖なる御住まいから立ち上がられるからだ。」   エルサレムの城壁が崩れたとき、人々は神が去られたのだと思ったに違いない。城壁こそが神の臨在と守りを象徴する印であったからである。しかし今、神はゼカリヤを通してまったく新しい言葉を告げられる。「この町は城壁を持たない。わたしがその周囲の火の城壁となり、その中に栄光となって住む。」古代の城塞文化にとっては衝撃的な言葉であった。石で築かれた境界が消え、神の臨在そのものが都市の新しい境界となるということ。火は破壊ではなく守りであり、裁きではなく臨在となる。火はやがてエルサレムを照らす光となるだろう。 カルヴァンは『キリスト教綱要』の中で「教会の安全は制度や囲いにあるのではなく、神ご自身がそこに臨在されることにある」と語った。カルヴァンは教会を人間の作った制度的な構造として見なかった。教会は神の幕屋であり、神が共におられる限り、教会は決して崩れない。教会の本質は閉ざされた城壁ではなく、神が中心におられる空間である。信仰の囲いは外部を遮断する防壁によって守られるのではなく、神がわたしたちの内におられるという内的な確信のうちに築かれるものである。神が臨在されるところは開かれた場所であり、その開かれた空間の中でわたしたちは安全を経験する。 東京・上野の国立西洋美術館はル・コルビュジエによって設計された。彼は、壁で閉ざす構造ではなく、光が流れる境界が都市であり、光の中で形をつくる秩序の芸術こそ建築だと考えた。この美術館では、中心から螺旋状に拡張する構造の中に、開放と循環の秩序が実現されている。境界は壁ではなく、光がつくり出す見えない秩序であった。カルヴァンが語った臨在の幕屋、コルビュジエが設計した開かれた空間、それらはすべてそのビジョンを今日の言葉に置き換えたものだ。ゼカリヤが見た火の城壁という建築的な想像力が、西洋キリスト教美術を包むこの美術館に具現化されたと言ってもよいだろう。 わたしたちが生きる都市と教会は、安全や防犯のために、あるいはそれぞれのアイデンティティを守るために、垣根を築き、外部を遮断している。しかし神の臨在は壁によって制限されることはない。神は城壁を越えて都市のすべての場所に臨在される。神の守りは孤立ではなく開放であり、排除ではなく包容である。それこそが、外からの攻撃や非難から真に守られる教会の価値となる。教会と都市の間に壁を築かない教会によって、都市と教会は共に神のうちに守られるだろう。それが、わたしたちが今回復すべき火の城壁の都市、すなわち神が臨在される開かれたエルサレムではないだろうか。

스가랴 묵상 【예루살렘의 경계】 20251015(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

스가랴 2:1~13 2:1 내가 또 눈을 들어 본즉 한 사람이 척량줄을 그 손에 잡았기로 2:2 네가 어디로 가느냐 물은즉 내게 대답하되 예루살렘을 척량하여 그 장광을 보고자 하노라 할 때에 2:3 내게 말하는 천사가 나가매 다른 천사가 나와서 그를 맞으며 2:4 이르되 너는 달려가서 그 소년에게 고하여 이르기를 예루살렘에 사람이 거하리니 그 가운데 사람과 육축이 많으므로…

ゼカリヤ 黙想 【四つの角と四人の職人】 20251014 (火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ゼカリヤ 1:7~21 1:7 ダレイオスの第二年、シェバテの月である第十一の月の二十四日に、イドの子ベレクヤの子、預言者ゼカリヤに、次のような主のことばがあった。 1:8 夜、私が見ると、なんと、一人の人が赤い馬に乗っていた。その人は、谷底にあるミルトスの木の間に立っていた。そのうしろには、赤毛や栗毛や白い馬がいた。 1:9 私は「主よ、これらの馬は何ですか」と尋ねた。すると、私と話していた御使いが「これらが何なのか、あなたに示そう」と言った。 1:10 すると、ミルトスの木の間に立っていた人が答えた。「これらは、地を行き巡るために主が遣わされた者たちだ。」 1:11 すると彼らは、ミルトスの木の間に立っている主の使いに答えた。「私たちは地を行き巡りましたが、まさに全地は安らかで穏やかでした。」 1:12 それに答えて主の使いは言った。「万軍の主よ。いつまで、あなたはエルサレムとユダの町々に、あわれみを施されないのですか。あなたが憤られて七十年になります。」 1:13 すると主は、私と話していた御使いに、恵みのことば、慰めのことばで答えられた。 1:14 私と話していた御使いは私に言った。「叫んで言え。『万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。 1:15 しかし、わたしは大いに怒る。安逸を貪っている国々に対して。わたしが少ししか怒らないでいると、彼らは欲するままに悪事を行った。』 1:16 それゆえ、主はこう言われる。『わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る。そこにわたしの宮が建て直される。──万軍の主のことば──測り縄がエルサレムの上に張られる。』 1:17 もう一度叫んで言え。『万軍の主はこう言われる。わたしの町々には、再び良いものが満ちあふれ、主は再びシオンを慰め、再びエルサレムを選ぶ。』」 1:18 私が目を上げて見ると、なんと、四つの角があった。 1:19 私と話していた御使いに「これらは何ですか」と尋ねると、彼は言った。「これらは、ユダとイスラエルとエルサレムを散らした角だ。」 1:20 そのとき、主は四人の職人を私に見せてくださった。 1:21 私が「この人たちは、何をしに来たのですか」と尋ねると、主は次のように言われた。「これらはユダを散らして、だれにも頭をもたげさせなかったあの角だ。この人たちは、これらの角を震え上がらせるために、やって来たのだ。ユダの地を散らそうと角をもたげる国々の角を打ち滅ぼすためだ。」   イスラエルの民がバビロン捕囚から帰ってすでに数十年が過ぎていた。神殿の基礎は据えられていたが、人々の信仰は冷め、エルサレムの再建は依然として未完成の廃墟のままであった。主は預言者ゼカリヤを通してこう語られた。 「わたしに立ち帰れ。万軍の主の御告げ。そうすれば、わたしもあなたがたに立ち帰ろう。」主の御心はすでに民に向かっており、人々が目を覚ますならば再び主に向かうことができた。本日の本文は、その約束が歴史の中でどのように実現するかを示している。立ち帰れと招かれた神ご自身が、今や自ら立ち帰られる物語である。 ゼカリヤは夜の中で幻を見た。紅い馬、栗毛の馬、白い馬に乗る者たちがミルトスの木の谷間に立っていた。彼らは神の使いであり、全地を巡って報告していた。「全地は静かで穏やかです」と。確かに帝国の政治的な状況は安定していたかもしれない。しかし、神の都エルサレムは依然として崩れていた。そこで天使が神に問う。「いつまでエルサレムをあわれまれないのですか。」この問いは不平ではなく、沈黙の中で神を信頼して待つ祈りであった。 その問いに対して、神は答えられる。「わたしはエルサレムのためにねたみ、シオンのために激しく憤る。わたしは再びエルサレムに帰り、あわれみを注ぎ、わたしの家はその中に建てられるであろう。」神は「民が立ち帰れば、わたしも帰る」と言われたが、今や「わたしが先に帰る」と言われる。回復は人間の決意から始まるのではない。すべての回復の出発点は神ご自身である。人間の信仰がどれほど大きくても、神の愛に先行することはできない。神のあわれみがまず流れるからこそ、人の悔い改めが目覚める。信仰の主導権は常に神にある。 ゼカリヤはさらにもう一つの幻を見る。四つの角が現れ、それに続いて四人の職人が現れた。角はイスラエルを圧迫した諸帝国――アッシリア、バビロン、ペルシャ、ギリシア――を象徴している。しかし神は、その角を打ち砕くために職人たちを遣わされる。彼らは単なる技術者ではない。神が救いの道具として立てられた人々である。彼らの手によって、傲慢な帝国は砕かれ、崩れた共同体が再び建て直される。回復は職人の繊細な手によって緻密に進められる。神はエルサレムの石を直接積まれはしないが、職人を呼び、その手を通して世の中に働かれる。神はいつも人を通して御業を行われる。 最初の幻は、立ち帰られた神の「心」であり、第二の幻は、その心が世界を癒やす「御手」である。昨日は「主に立ち帰れ」という呼びかけであり、今日は「主が立ち帰られる」という宣言である。愛する者が先に動くように、愛しておられる神が先に立ち上がられる。人の悔い改めと神のあわれみが向かい合う瞬間である。神が先に立ち帰られるからこそ、私たちは立ち帰ることができる。私たちが向きを変えるとき、主は再び私たちの中に満ちてくださる。神の愛は常に先にあり、その愛こそがすべての回復の始まりである。

스가랴 묵상 【네 뿔과 네 공장】 20251014(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

스가랴 1:7~21 1:7 다리오왕 이년 십일월 곧 스밧월 이십사일에 잇도의 손자 베레갸의 아들 선지자 스가랴에게 여호와의 말씀이 임하여 이르시니라 1:8 내가 밤에 보니 사람이 홍마를 타고 골짜기 속 화석류나무 사이에 섰고 그 뒤에는 홍마와 자마와 백마가 있기로 1:9 내가 가로되 내 주여 이들이 무엇이니이까 내게 말하는 천사가 내게 이르되 이들이 무엇인지 내가 네게 보이리라 하매…

ローマ人への手紙 黙想【クレジットタイトル】20251011(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ローマ人への手紙 16:1-16 16:1 私たちの姉妹で、ケンクレアにある教会の奉仕者であるフィベを、あなたがたに推薦します。 16:2 どうか、聖徒にふさわしく、主にあって彼女を歓迎し、あなたがたの助けが必要であれば、どんなことでも助けてあげてください。彼女は、多くの人々の支援者で、私自身の支援者でもあるのです。 16:3 キリスト・イエスにある私の同労者、プリスカとアキラによろしく伝えてください。 16:4 二人は、私のいのちを救うために自分のいのちを危険にさらしてくれました。彼らには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。 16:5 また彼らの家の教会によろしく伝えてください。キリストに献げられたアジアの初穂である、私の愛するエパイネトによろしく。 16:6 あなたがたのために非常に労苦したマリアによろしく。 16:7 私の同胞で私とともに投獄されたアンドロニコとユニアによろしく。二人は使徒たちの間でよく知られており、また私より先にキリストにある者となりました。 16:8 主にあって私の愛するアンプリアトによろしく。 16:9 キリストにある私たちの同労者ウルバノと、私の愛するスタキスによろしく。 16:10 キリストにあって認められているアペレによろしく。アリストブロの家の人々によろしく。 16:11 私の同胞ヘロディオンによろしく。ナルキソの家の主にある人々によろしく。 16:12 主にあって労苦している、トリファイナとトリフォサによろしく。主にあって非常に労苦した愛するペルシスによろしく。 16:13 主にあって選ばれた人ルフォスによろしく。また彼と私の母によろしく。 16:14 アシンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス、および彼らとともにいる兄弟たちによろしく。 16:15 フィロロゴとユリア、ネレウスとその姉妹、またオリンパ、および彼らとともにいるすべての聖徒たちによろしく。 16:16 あなたがたは聖なる口づけをもって互いにあいさつを交わしなさい。すべてのキリストの教会が、あなたがたによろしくと言っています。    ローマ人への手紙の内容は15章で終わっても不自然ではありませんが、使徒パウロはこの16章の内容をもって手紙をまとめています。    映画やドラマ、あるいは本や資料を見るとき、私たちが目にするのは表面に現れている人々だけです。監督や俳優、著者や推薦者、助手など、私たちはそうした表面的な情報によってそれらを記憶しています。  映画館でクレジットタイトル(エンディングクレジット)が流れるとき、人々が関心を持つのは、その後に追加映像があるかどうかだけです。クレジットタイトルが流れている途中で退場する人がほとんどです。しかし、そのクレジットタイトルには、その作品のために苦労したすべての人々、見えないところで苦労したすべての人々の名前が記されています。彼らの働きがなければ、その作品が完成され、その場で上映されることもなかったでしょう。  今日の箇所の内容は、まさにそのようなものです。私たちが記憶し、認識しているのは、「使徒パウロがローマにいるキリスト者たち宛てに書いた手紙」「彼らへの勧め」という表面的な情報だけです。しかしその背後には、その手紙が届けられるまでに、また使徒パウロのすべての宣教活動がなされるまでに共に労した同労者たちの名前が、クレジットタイトルのように並んでいるのです。  初代教会において、使徒パウロという名前は収益を保証するA級俳優や監督のような存在であったでしょう。その影響力は非常に大きく、その献身もまた偉大なものでした。しかしそのパウロにも同労者たちが存在しました。彼らなしには、私たちが知っている「使徒パウロ」は存在しなかったでしょう。  パウロはその事実を誰よりもよく知っていました。自分が御言葉を伝えることに専念できるよう支え、仕えてくれた多くの同労者たち、そして何よりも、彼らすべてがキリストにあって一つの体、すなわち一つの教会として建てられたという事実です。  そのようなパウロが一貫して強調してきたことは何でしょうか。それは、教会の頭であるイエス・キリストです。自分がどれほど大きな影響力を持っていようとも、尊敬される人物であったとしても、使徒パウロ自身も、また他の誰も、教会の代表にはなれないということです。唯一、キリストだけが教会の代表となることができるのです。  私たちの目には、このローマ書のクレジットタイトルが、使徒パウロを助けた人々の名前のように見えるかもしれません。確かに彼らはパウロを助けました。しかし、これはパウロを助けた者たちの名簿ではありません。キリストの教会に仕えた者たちの名であり、パウロ自身もまたその一人の献身者でした。そして私たちもまた、同じように献身者として、キリストの教会に仕えた者として、神様に記憶されるのです。 https://youtu.be/DTWshVVZrc4?si=P1Bxeo34VyfSNyQV

로마서 묵상【엔딩 크레딧】20251011(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

로마서 16:1-16 16:1 내가 겐그레아 교회의 일꾼으로 있는 우리 자매 뵈뵈를 너희에게 추천하노니 16:2 너희는 주 안에서 성도들의 합당한 예절로 그를 영접하고 무엇이든지 그에게 소용되는 바를 도와 줄지니 이는 그가 여러 사람과 나의 보호자가 되었음이라 16:3 너희는 그리스도 예수 안에서 나의 동역자들인 브리스가와 아굴라에게 문안하라 16:4 그들은 내 목숨을 위하여 자기들의 목까지도 내놓았나니 나뿐 아니라…

ローマ人への手紙 黙想【教会と宣教師】20251010(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ローマ人への手紙 15:22-33 15:22 そういうわけで、私は、あなたがたのところに行くのを何度も妨げられてきました。 15:23 しかし今は、もうこの地方に私が働くべき場所はありません。また、イスパニアに行く場合は、あなたがたのところに立ち寄ることを長年切望してきたので、 15:24 旅の途中であなたがたを訪問し、しばらくの間あなたがたとともにいて、まず心を満たされてから、あなたがたに送られてイスパニアに行きたいと願っています。 15:25 しかし今は、聖徒たちに奉仕するために、私はエルサレムに行きます。 15:26 それは、マケドニアとアカイアの人々が、エルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために、喜んで援助をすることにしたからです。 15:27 彼らは喜んでそうすることにしたのですが、聖徒たちに対してそうする義務もあります。異邦人は彼らの霊的なものにあずかったのですから、物質的なもので彼らに奉仕すべきです。 15:28 それで私はこのことを済ませ、彼らにこの実を確かに渡してから、あなたがたのところを通ってイスパニアに行くことにします。 15:29 あなたがたのところに行くときは、キリストの祝福に満ちあふれて行くことになると分かっています。 15:30 兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によってお願いします。私のために、私とともに力を尽くして、神に祈ってください。 15:31 私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、エルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるように、 15:32 また、神のみこころにより、喜びをもってあなたがたのところに行き、あなたがたとともに、憩いを得ることができるように、祈ってください。 15:33 どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。    福音を伝えるための宣教において、教会と宣教師の協力は切っても切り離せない関係にあります。近年では、この関係を単なる協力関係としてではなく、それぞれが別々の働きをするのではなく、「宣教」という一つの使命と義務を共有しているものとして捉え、教会を「送り出す宣教師」、そして宣教現場で直接福音を伝える者を「出て行く宣教師」と呼ぶようにもなっています。    その現場で福音を伝え、キリストのからだである教会を建て、信徒を養うこと、その使命を果たすための手段や方法を模索し、実践することなど、出て行く宣教師がすべきことは明確です。  しかし一方で、「送り出す宣教師」である教会の役割は、しばしば曖昧に感じられることがあります。    宣教師のこと、その働きの内容、その対象となる人々、またその地での必要をよく知らないために、自分たちの役割をも明確に理解できない、これが、現代の多くの教会が抱える問題の原因の一つであると言えるでしょう。  その意味で、今日の本文である使徒パウロの手紙の内容は、出て行く宣教師にとっても、送り出す宣教師にとっても重要な教えを与えています。    使徒パウロとローマの教会は、非常に親しい関係にありました。その親しさは、互いに会うことが「喜び」となるほどでした。では、そのような関係はどのようにして続けられていたのでしょうか。    まず第一に、出て行く宣教師であったパウロ自身の努力がありました。彼は、自分を送り出し、物心両面で支えてくれた人々に対して、丁寧な手紙を書き、近況と心を伝え、時には訪問して喜びを分かち合い、自分の働きを詳しく報告する努力を惜しまなかったのです。    また、送り出す宣教師であったローマの信徒たちの努力もありました。彼らは自分たちのもとにはいないものの、福音を伝えるために出て行った信仰の家族、一つのからだである彼のために心を合わせ祈り、彼の働きが進むように心から支援し、そしていつでもパウロが帰って来たときに温かく迎え、共に喜びを分かち合えるように、教会の中に彼の居場所を整えていたのです。    教会と宣教師の関係は、単なる協力関係ではありません。支援者と被支援者の関係でもなく、教会とその代理人のような関係でもありません。まるで学生に奨学金を支給するような関係であってはならないのです。    教会と宣教師は一つのからだです。教会が宣教師であり、宣教師が教会です。教会は、宣教師とその働きについて知らなければなりません。そのために、宣教師は教会に伝えなければなりません。それは働きを検査されたり、評価されたりするためではなく、共に力を合わせて仕える一つのからだ、キリストをかしらとする一つのからだであるためです。その中で共に喜ぶためです。 https://youtu.be/_uwf5_bibcM?si=o6v-k6pL3ExKMNlW

로마서 묵상【교회와 선교사】20251010(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

로마서 15:22-33 15:22 그러므로 또한 내가 너희에게 가려 하던 것이 여러 번 막혔더니 15:23 이제는 이 지방에 일할 곳이 없고 또 여러 해 전부터 언제든지 서바나로 갈 때에 너희에게 가기를 바라고 있었으니 15:24 이는 지나가는 길에 너희를 보고 먼저 너희와 사귐으로 얼마간 기쁨을 가진 후에 너희가 그리고 보내주기를 바람이라 15:25 그러나 이제는 내가 성도를 섬기는…