民数記 黙想【記念とする日】20250531(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生
民数記 31:25-54 31:25 主はモーセに言われた。 31:26 「あなたと祭司エルアザル、および会衆の氏族のかしらたちは、人でも家畜でも捕らえて分捕ったものの総数を調べ、 31:27 その分捕ったものを、戦に出た者たちと全会衆の間で二分せよ。 31:28 戦に出た戦士たちからは、人、牛、ろば、羊の中からそれぞれ五百のうち一を、主への貢ぎとして徴収せよ。 31:29 彼らが受けるその半分の中から取って、主への奉納物として祭司エルアザルに渡さなければならない。 31:30 イスラエルの子らが受けるもう半分の中から、人、また牛、ろば、羊、それぞれの家畜から、それぞれ五十のうち一を取り出して、主の幕屋の任務に当たるレビ人に与えなければならない。」 31:31 そこでモーセと祭司エルアザルは、主がモーセに命じられたとおりに行った。 31:48 すると、軍団の指揮官たち、すなわち千人の長、百人の長たちがモーセのもとに進み出て、 31:49 モーセに言った。「しもべどもは、部下の戦士たちの総数を数えました。私たちのうち一人も欠けていません。 31:50 それで、私たちは、各自が手に入れた金の飾り物、すなわち腕飾り、腕輪、指輪、耳輪、首飾りなどを主へのささげ物として持って来ました。主の前で私たち自身のための宥めとしたいのです。」 31:51 モーセと祭司エルアザルは、彼らから金を受け取った。それはあらゆる種類の細工を施した物であった。 31:52 千人の長や百人の長たちが主に献げた奉納物の金は、全部で一万六千七百五十シェケルであった。 31:53 従軍した人たちは、それぞれ、戦利品を自分のものとした。 31:54 モーセと祭司エルアザルは、千人の長や百人の長たちから金を受け取り、それを会見の天幕に持って行き、主の前における、イスラエルの子らのための記念とした。 ミディアンとの戦いの後、清めの儀式を経た捕虜と戦利品は、神様の命令に従って配分されました。半分は戦いに出て戦った兵士たちに、残りの半分はイスラエルの会衆に与えられました。そして兵士たちは受け取ったものの五百分の一を神様にささげ、民は受け取ったものの五十分の一をレビ人に与えるよう命じられました。 すべてがその命令どおりに行われ、すべてが終わったかのようなそのとき、兵士たちがモーセのところへやって来ました。彼らは前の箇所で、モーセの怒りを買った人々でした。そのような彼らがモーセのところに来た理由は、自分たちと自分たちの兵士を守ってくださった神様の御前に悔い改めるためでした。彼らは、自分たちが戦争に勝ったこと、それも一人の死者も出さずに勝てたことが、神様の恵みであることを告白していたのです。 だからこそ、自分たちが受け取ったすべての財物もまた自分たちのものではないと告白し、それらすべてをささげてでも神様のもとへ進み出ようとしたのです。本当の敵を知らず、罪を犯してしまった彼らが、本当の恩人を見知るようになった瞬間でした。 彼らがささげた物は「自分の物とした」戦利品でした。それは別の意味で、彼ら自分のためのものとなりました。自分たちの所有ではないと告白するための道具として、受けた恵みを再び神様にささげることで自分自身を新たにする道具として、その物が用いられたのです。モーセとエルアザルはその日を、神様の御前でイスラエルの子らのための記念としました。 このような姿は、私たちが初めて信仰を告白した瞬間、私たちの罪に気づいたその瞬間と似ていると思わされます。私たちが神様の御前で自らの罪を知り、自分がどのような存在であり、どのような結末を迎えるべきであったのか、しかし、そのような自分のために神様がどのようなことをなさってくださったかを知るそのとき、自分自身を神様にささげると告白します。その日は、私たちにとって忘れられない、忘れてはいけない記念とする日です。 だからこそ、私たちは年を重ねていく中で変わり行く人生の証しの中、変わらない唯一の瞬間、あの日を私たちの証しの始まりとします。私たちの人生の主人が自分自身から神様へと変わるその日は、私たちの人生において最も偉大で、意味深い日であり、私たちの一生を変える始まりなのです。 https://youtu.be/RUWuj5XFGvg?si=UUGSgtjYoqEJnXty