民数記 黙想 【締め出し】 20250411(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生
民数記 12:9-16 12:9 主の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主は去って行かれた。 12:10 雲が天幕の上から離れ去ると、見よ、ミリアムは皮膚がツァラアトに冒され、雪のようになっていた。アロンがミリアムの方を振り向くと、見よ、彼女はツァラアトに冒されていた。 12:11 アロンはモーセに言った。「わが主よ。どうか、私たちが愚かにも陥ってしまった罪の罰を、私たちに負わせないでください。 12:12 どうか、彼女を、肉が半ば腐って母の胎から出て来る死人のようにしないでください。」 12:13 モーセは主に叫んだ。「神よ、どうか彼女を癒やしてください。」 12:14 しかし主はモーセに言われた。「もし彼女の父が彼女の顔に唾したら、彼女は七日間、恥をかかされることにならないか。彼女を七日間、宿営の外に締め出しておかなければならない。その後で彼女は戻ることができる。」 12:15 それでミリアムは七日間、宿営の外に締め出された。民はミリアムが戻るまで旅立たなかった。 12:16 それから民はハツェロテを旅立ち、パランの荒野に宿営した。 神様は確かに怒りを持たれるお方です。私たちはその神様の怒りを常に心に留め、恐れを持っていく必要があります。しかしそこで大切なのは、その怒りがどこに向かっているかを正しく理解することです。 私たちに与えられた救いについて語るとき、必ず一緒に語られることが「罪」です。人間に罪があるからこそ、神様の救いが必要であるからです。神様が救おうとされるのは、他の何かではなく、「罪」とその結果である「死」からの救いです。その理由は、聖書がはっきりと語っているように、神様が私たちを愛しておられるからです。 ある人は、「これは矛盾している」と感じることもあるかもしれません。しかし実は、神様ご自身が矛盾した存在とならないためにこそ、この方法ような方法を用いておられるのです。愛なる神でありながら、同時に罪を必ず裁かれるお方である神様が、愛のゆえに罪を見過ごすとしてしまえば、そこに矛盾が生まれます。逆に愛する民を罪の結果の通りに裁いてしまえば、それもまた神様の愛と矛盾することになってしまうのです。 だからこそ神様は、ご自身の民を愛しつつ、罪を裁くというかたちで救いを成し遂げられたのです。罪を犯した人間そのものに対して怒るのではなく、人間の中にある「罪」を憎まれ、怒っておられるのです。それゆえ人間を裁くのではなく、罪そのものを裁かれました。それと同時に、人間が犯した罪の代価を確かに払らわれたこと、このすべてのことがイエス・キリストの十字架によって成し遂げられたのです。 アロンがモーセに願ったように、イエス様は十字架の上で、ご自身の民のために神様に執り成しをされました。そして、ご自分がその罪のすべての結果を背負って行ったのです。 神様の怒りの対象は、ミリアムという人ではありませんでした。聖書のテキストだけを見ると、まるでイスラエルの民がミリアムを待っていたかのように見えるかもしれませんが、それだけではありません。イスラエルの民の旅立ちは、常に神様の導かれていました。つまり、ミリアムを待っていたのはイスラエルの民だけではなく、神様ご自身であったのです。 罪を犯して宿営の外に締め出されたミリアムが、裁きを受け終えて再び宿営に戻るまで、神様はイスラエルの民すべてをそこに留まらせました。神様は最後までミリアムを見捨てず、共に歩まれたのです。神様が宿営から締め出されたのは、ミリアムという人ではなく、彼女の中にあった「罪」だったのです。 私たちも時には、まるで荒野でひとりきりになったように感じることもあります。神様から見捨てられたのではないか、締め出されたのではないかと思ってしまうこともあるでしょう。しかし、そのような時間は、決して私たちが神様の御前から締め出された時間ではありません。私たちの中にある罪が、神様の御前から締め出される時間なのです。そしてその時こそ、罪に打ち勝ったイエス・キリストの勝利を、私たちの心に受け入れていく時間なのです。 神様の御前から締め出される苦しみは、すでにイエス・キリストが十字架で全て引き受けてくださいました。 https://youtu.be/CIVd8VOhRnU?si=l_PxK0DPbZXrvV-B