ヨシュア 黙想 【書かずに知っていると言う嘘】 20251203(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨシュア 12:1~24 12:1 ヨルダンの川向こう、日の昇る方で、アルノン川からヘルモン山までの全東アラバにおいて、イスラエルの子らが討ち、占領した地の王たちは次のとおりである。 12:2 ヘシュボンに住んでいた、アモリ人の王シホン。彼はアルノンの渓谷の縁にあるアロエルから、その渓谷の中、およびギルアデの半分、そしてアンモン人の国境ヤボク川まで、 12:3 またアラバ、すなわち、キネレテ湖の東まで、またアラバの海すなわち塩の海の東まで、ベテ・ハ・エシモテへの道まで、そして南はピスガの傾斜地のふもとまでを支配していた。 12:4 アシュタロテとエデレイに住む、レファイムの生き残りの一人である、バシャンの王オグの領土。 12:5 彼はヘルモン山、サルカ、ゲシュル人とマアカ人との国境に至るバシャンの全土、ギルアデの半分、ヘシュボンの王シホンの国境までを支配していた。 12:6 主のしもべモーセとイスラエルの子らは、彼らを討った。主のしもべモーセはルベン人とガド人と、マナセの半部族に、その地を所有地として与えた。 12:7 ヨルダン川のその反対側、西の方で、レバノンの谷のバアル・ガドから、セイルへ上るハラク山までで、ヨシュアとイスラエルの人々が討ったその地の王たちは、次のとおりである。ヨシュアはイスラエルの部族に、彼らへの割り当てにしたがって、この地を所有地として与えた。 12:8 この王たちは山地、シェフェラ、アラバ、傾斜地、荒野、ネゲブに住んでいて、ヒッタイト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人であった。 12:9 エリコの王、一人。ベテルの隣のアイの王、一人。 12:10 エルサレムの王、一人。ヘブロンの王、一人。 12:11 ヤルムテの王、一人。ラキシュの王、一人。 12:12 エグロンの王、一人。ゲゼルの王、一人。 12:13 デビルの王、一人。ゲデルの王、一人。 12:14 ホルマの王、一人。アラドの王、一人。 12:15 リブナの王、一人。アドラムの王、一人。 12:16 マケダの王、一人。ベテルの王、一人。 12:17 タプアハの王、一人。ヘフェルの王、一人。 12:18 アフェクの王、一人。シャロンの王、一人。 12:19 マドンの王、一人。ハツォルの王、一人。 12:20 シムロン・メロンの王、一人。アクシャフの王、一人。 12:21 タアナクの王、一人。メギドの王、一人。 12:22 ケデシュの王、一人。カルメルのヨクネアムの王、一人。 12:23 ドルの高地の、ドルの王、一人。ギルガルのゴイムの王、一人。 12:24 ティルツァの王、一人。全部で三十一人の王である。     神はイスラエルに勝利を記録させられた。記録という行為には、明確な機能と意味がある。信仰の記録とは、事務的な作業ではなく、神の証しをこの世界に残す行為である。私たちが読んできたカナン征服の物語には、人間の戦略や技術は存在しなかった。そこにあったのは、神ご自身が捕らえられた王、神が開かれた道、神が行われた御業だけである。信仰は感情の上に築かれるものではなく、神が通られた道――その「記憶」の上に築かれる。ゆえに、記憶しなければ信仰は道を失い、しばしばその基盤を喪失する。証しとは武勇談ではない。神が現れ、神が統治された事実の記録である。証しをもたない信仰は存在せず、その主語は常に、そして必ず、神である。 過去の記憶は現在を支える力となり、未来の境界を押し広げる原動力となる。イスラエルが王を一人倒すたびに広がったものは土地ではなく、神の主権が認められる霊的空間であった。宣教も同じである。宣教とは、神の主権を拡大する働きである。神が統治される領域が広がる時、人間の限界は崩れ、共に拡張される。すなわち、神の主権の拡大に献身する者は、自分自身の限界も現実の限界も超えていく証しを経験することになる。恐れ、傷、失敗、拒絶、限界だと考えていたものが、以前に現れてくださった神の記憶の前でよみがえり、再び自分の位置へと集まってくる。 だからこそ、今日も私は記録する。書きながら、もう一度噛みしめ、再解釈する。長くなり、複雑になった物語の中で、その意味を再構成する。その作業の中で、私は知らなかった神を、新しい自分を再発見する。その過程において、神はさらにダイナミックに迫ってこられ、私の神が大きくなればなるほど、私は自由になる。神が高められるとき、私を閉じ込めていた限界も崩れていく。記録をやめれば、証しも止まる。神がどこまで来られたかを記録によって確かめる者だけが、神がどこまで行かれるのかを思い描くことができる。書け、という要求は、読め・聞け・語れ、という要求よりも、いつも激しく拒絶される。しかし、それでもなお、書かなければならないと言い続けるしかない。…

여호수아 묵상 【쓰지 않는데 안다는 거짓말】 20251203(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

여호수아 12:1~24 12:1 이스라엘 자손이 요단 저편 해 돋는 편 곧 아르논 골짜기에서 헤르몬산까지의 동방 온 아라바를 점령하고 그 땅에서 쳐 죽인 왕들은 이러하니라 12:2 헤스본에 거하던 아모리 사람의 왕 시혼이라 그 다스리던 땅은 아르논 골짜기 가에 있는 아로엘에서부터 골짜기 가운데 성읍과 길르앗 절반 곧 암몬 자손의 지경 얍복강까지며 12:3 또 동방 아라바 긴네롯 바다까지며…

여호수아 묵상 【그 땅에 전쟁이 그쳤더라】 20251202(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

여호수아 11:16~23 11:16 여호수아가 이같이 그 온 땅 곧 산지와 온 남방과 고센 온 땅과 평지와 아라바와 이스라엘의 산지와 그 평지를 취하였으니 11:17 곧 세일로 올라가는 할락산에서부터 헤르몬산 아래 레바논 골짜기의 바알갓까지라 그 모든 왕을 잡아 쳐죽였으며 11:18 여호수아가 그 모든 왕과 싸운 지는 여러 날이라 11:19 기브온 거민 히위 사람 외에는 이스라엘 자손과 화친한…

ヨシュア 黙想 【その地に戦争はやんだ】 20251202(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨシュア 11:16~23 11:16 ヨシュアはこの全地、すなわち、山地、ネゲブの全地域、ゴシェンの全土、シェフェラ、アラバ、イスラエルの山地とそのシェフェラを奪い取った。 11:17 彼は、セイルへ上って行くハラク山から、ヘルモン山のふもとの、レバノンの谷にあるバアル・ガドまでを攻め取った。その王たちをことごとく捕らえ、彼らを討って殺した。 11:18 長い間にわたってヨシュアはこれらすべての王たちと戦った。 11:19 ギブオンの住民であるヒビ人以外に、イスラエルの子らと和を講じた町は一つもなかった。イスラエルの子らは戦って、すべてを奪い取った。 11:20 彼らの心を頑なにし、イスラエルに立ち向かって戦わせたのは、主から出たことであった。それは、彼らを容赦なく聖絶するため、主がモーセに命じられたとおりに彼らを根絶やしにするためであった。 11:21 そのときヨシュアは行って、アナク人を山地、ヘブロン、デビル、アナブ、ユダのすべての山地、イスラエルのすべての山地から断った。その町々とともにヨシュアは彼らを聖絶した。 11:22 こうしてアナク人は、イスラエルの子らの地には残らなかった。ただガザ、ガテ、アシュドデに残るのみとなった。 11:23 ヨシュアはすべて主がモーセに告げられたとおりに、その地をことごとく奪い取った。ヨシュアはこの地を、イスラエルの部族への割り当てにしたがって、相続地としてイスラエルに与えた。そして、その地に戦争はやんだ。     ついに征服の戦いは終わり、神は約束どおりカナンをイスラエルの所有として与えられた。イスラエルは長い時間、苦労を味わったが、戦いの主体は一貫して神であり、イスラエルが背負った苦労は勝敗を担う「主体的な苦労」ではなく、神のことばに従う「従順の苦労」であった。すべての責任を抱え、自分たちの力で勝ち取ったのではなく、戦われたのは神であり、民はただ従ったにすぎない。 ヨシュアのカナン征服を単なる物語として読めば、面白い昔話で終わってしまうかもしれない。しかし、この物語の骨格は「神の勝利」と「イスラエルの従順」、そしてその上に置かれた「契約」という構造である。神の根拠は約束であり、その約束が成就する絶対条件は全き従順であった。イスラエルの従順が確かめられたとき、神は圧倒的な勝利を与えられ、戦いは終わり、報いと安息が続いた。 重要なのは、この物語を自分の人生の現実に重ねて見ることである。果たして私には、神からいただいた約束があるのだろうか。それは個人的で人格的、そして秘められたものだ。みことばと自分との間に個人的で人格的な交わりがない人に、神との契約があるはずがない。彼らが語る約束の多くは他人から聞いたものであり、自分の言葉と生活では何ひとつ説明できない。宗教的な言葉を使ってはいても、神との「契約書」を持っていないのと同じである。 約束があるなら従順が伴わなければならない。従順は消極的な追従ではない。自分を否定し、神を認める積極的な決断である。神を信じるとは、神でないものを信じないという意味である。したがって、自分自身も信じてはならない。自分を疑い、否定し、手放さなければならない。自分の力で挑戦し何かを成し遂げようとする努力よりも、従順のほうがむしろ大きな勇気を必要とするだろう。その従順は、信仰なしには真似できないものだからである。 契約と従順、この二つを確かめないままでは、ヨシュアの勝利を正しく読むことはできない。読んでみても他人の話、昔話で終わってしまう。私は神と契約を持っているのか。自分の判断を否定し、非現実的に見える神のみことばに従って、すべての選択と決断をすることができるのか。その答えは、みことばの世界に入り、神に告白する中で見えてくる。神との対話の仕方を知らなければ、契約と従順は居場所を見つけることができないだろう。ヨシュアのカナン征服記は戦争の物語ではなく、みことばに従って生きる「従順の人々」の物語なのである。

ヨシュア 黙想 【欲望というアキレス腱を断ち切れ】 20251201(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨシュア 11:1~15 11:1 ハツォルの王ヤビンはこのことを聞いて、マドンの王ヨバブ、シムロンの王、アクシャフの王、 11:2 また、北方の山地、キネレテの南のアラバ、シェフェラ、西方のドルの高地の王たち、 11:3 すなわち、東西のカナン人、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、山地のエブス人、ヘルモンのふもと、ミツパの地のヒビ人に人を遣わした。 11:4 彼らはその全陣営とともに出て来た。海辺の砂のように大勢の兵で、馬や戦車も非常に多かった。 11:5 これらの王たちはみな集まり、進んで行き、イスラエルと戦うためにメロムの水のほとりでともに陣を敷いた。 11:6 主はヨシュアに告げられた。「彼らを恐れてはならない。明日の今ごろ、わたしは彼らをことごとく、イスラエルの前で刺し殺された者とするからだ。あなたは彼らの馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火で焼け。」 11:7 ヨシュアはすべての戦う民とともに、メロムの水のほとりにいる彼らを急襲した。 11:8 主は彼らをイスラエルの手に渡された。イスラエルは彼らを討ち、大シドンおよびミスレフォト・マイムまで、東の方ではミツパの谷まで彼らを追い、一人も残さず討った。 11:9 ヨシュアは主が告げられたとおりに彼らにした。彼らの馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火で焼いた。 11:10 ヨシュアはそのとき引き返して、ハツォルを攻め取った。その王は剣で討った。ハツォルは当時、これらすべての王国の盟主だったからである。 11:11 ヨシュアたちはそこにいたすべてのものを剣の刃で討ち、聖絶した。息のある者は一人も残らなかった。彼はハツォルを火で焼いた。 11:12 ヨシュアは、これらの王たちのすべての町を攻め取り、そのすべての王たちを剣の刃で討ち、聖絶した。主のしもべモーセが命じたとおりであった。 11:13 イスラエルは、丘の上に立っている町々はどれも焼かなかった。ただし、ヨシュアは例外としてハツォルだけは焼いた。 11:14 これらの町々のすべての分捕り物と家畜を、イスラエルの子らは戦利品として自分たちのものとした。人間だけはみな剣の刃で討ち、根絶やしにした。息のある者は一人も残さなかった。 11:15 主がそのしもべモーセに命じられたとおりに、モーセはヨシュアに命じ、ヨシュアはそのとおりに行った。主がモーセに命じられたすべてのことばを、彼は一言も省かなかった。   失敗の中でも柔軟さを保つことができるなら、成功よりも大きな学びを得ることができる。イスラエルはアイの敗北を通して、世に対してはより堅くなり、神に対してはより完全な従順を学んだ。強い指導者とは、一度も失敗しなかった人ではなく、失敗を通して自分を省み、構造を立て直すことのできる人である。アイの出来事は、イスラエルとヨシュアにそのような「霊的弾力」を育てる契機となった。 神は失敗を通して謙遜を教え、謙遜を通して従順を教え、そして従順する人を通してより大きな働きを委ねられる。だからこそ、回復したイスラエルに神は北方の連合軍を打てと命じられた。ハツォル王ヤビンが率いるその連合軍は当時最強の軍事力を持っていたが、神は彼らを恐れるなと言われた。失敗の場所で従順を学んだ者こそ、この言葉が持つ力を理解し、受け入れることができるのだ。 ヨシュアは神の言葉を戦略とし、命じられたすべてを一つも欠けることなく、そのまま実行した。すでに勝利が確定している戦いで、敵の馬のアキレス腱を断ち切ることは決して容易な従順ではなかった。なぜなら、馬と戦車は当時の最先端の軍事システムだったからである。もともと北方連合軍が強大に見えた理由もまさにそこにあった。しかしイスラエルは戦利品に欲を出さず、神の言葉通りに完全に従った。だからこそ勝利は完全なものとなった。 人間は完全になれず、戦略も完璧でありえない。しかし、自分の思いを手放すことができるなら、完全に従順することはできる。そしてその従順は神の御心を映し出すゆえに、人間の不完全な結果ではなく、神の完全な結果として現れる。従順が戦略となるとは、神の言葉が人間の計算より先にあるという事実を知るだけでなく、その秩序を実際の生活、実際の戦い、実際の決断の場に適用するということである。従順は観念ではない。自分を捨てて神に従う従順こそ、その現場において力となり、勝利となる。神の前に従うとき、そこには不純物は残らない。

여호수아 묵상 【욕심의 아킬레스건을 끊어라】 20251201(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

여호수아 11:1~15 11:1 하솔 왕 야빈이 이 소식을 듣고 마돈왕 요밥과 시므론 왕과 악삽 왕과 11:2 및 북방 산지와 긴네롯 남편 아라바와 평지와 서방 돌의 높은 곳에 있는 왕들과 11:3 동서편 가나안 사람과 아모리 사람과 헷 사람과 브리스 사람과 산지의 여부스 사람과 미스바 땅 헤르몬산 아래 히위 사람들에게 사람을 보내매 11:4 그들이 그 모든 군대를…

ヨシュア記 黙想【勝利の理由】20251129(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨシュア記 10:15-28 10:15 ヨシュアは全イスラエルとともにギルガルの陣営に戻った。 10:16 これらの五人の王たちは逃げ、マケダの洞穴に隠れた。 10:17 すると、マケダの洞穴に隠れている五人の王たちが見つかったという知らせがヨシュアに入った。 10:18 ヨシュアは言った。「洞穴の口に大きな石を転がし、そのそばに人を置いて彼らを見張りなさい。 10:19 しかし、あなたがたは、そこにとどまってはならない。敵の後を追い、彼らのしんがりを攻撃しなさい。彼らを自分の町に逃げ込ませてはならない。あなたがたの神、主が彼らをあなたがたの手に渡されたからだ。」 10:20 ヨシュアとイスラエルの子らが非常に激しく彼らを討ち、ついに彼らが一掃されるまで攻撃し終わったとき、彼らのうちの生き残った者たちは城壁のある町々に逃げ込んだ。 10:21 兵はみな無事にマケダの陣営のヨシュアのもとに戻った。イスラエルの子らをののしる者は一人もいなかった。 10:22 ヨシュアは言った。「洞穴の口を開き、あの五人の王たちを、その洞穴から私のもとに引き出して来なさい。」 10:23 彼らはそのとおりにした。その五人の王たち、すなわち、エルサレムの王、ヘブロンの王、ヤルムテの王、ラキシュの王、エグロンの王を洞穴から彼のもとに引き出して来た。 10:24 彼らがその王たちをヨシュアのもとに引き出したとき、ヨシュアはイスラエルのすべての人を呼び寄せ、自分と一緒に行った戦士の指揮官たちに言った。「近寄って、この王たちの首を踏みつけなさい。」彼らは近寄り、王たちの首を踏みつけた。 10:25 ヨシュアは彼らに言った。「恐れてはならない。おののいてはならない。強くあれ。雄々しくあれ。あなたがたの戦うすべての敵に主がこのようにされる。」 10:26 その後、ヨシュアは王たちを討って殺し、五本の木にかけ、夕方まで木にかけておいた。 10:27 日の入るころになって、ヨシュアは命じて彼らを木から降ろし、彼らが隠れていた洞穴の中に投げ込んだ。その洞穴の口には大きな石が置かれ、今日に至っている。 10:28 その日、ヨシュアはマケダを攻め取り、この町とその王を剣の刃で討った。彼らとそこにいたすべての者を聖絶し、一人も残さなかった。彼はエリコの王にしたようにマケダの王にした。    五人の王たちとの戦いにおいて、ヨシュアとイスラエルの民は勝利を得ました。彼らが勝利することができたのは、ヨシュアとイスラエルに立ち向かうすべての敵との戦いにおいて、神様 がともに戦ってくださったからです。今日の本文には、その神様 の戦いと勝利が象徴的に示されています。   五人の王たちの最後は非常に悲惨なものでした。彼らは首を踏みつけられたまま死を迎え、死後も木にかけられて見せしめとされました。申命記の言葉が示すように、木にかけられた者は神様 の呪いを受けた者として民に記憶されました。これはイスラエルの民にとっても、周囲の国々にとっても、大きな警告となる出来事であったことでしょう。   イスラエルの民は、王たちが木にかけられているのを見ながら、彼らが死んだのは自分たちの力や能力によって勝ったからではなく、神様 が彼らを敵として立ち向かわれた結果であることを、申命記の言葉とともに思い起こしたはずです。また周囲の国々にとっても、五人の王たちの末路は大きな恐れとなったに違いありません。   五人の王たちは、イスラエルの民に首を踏みつけられたまま死を迎えました。使徒パウロがローマ書で語っているように、神様 が彼らを屈服させ、ご自身の民の足の下に置かれた姿です。この出来事を通して、私たちもまたヨシュアが語ったように、これから出会うすべての敵に対しても、神様 が同じように戦ってくださることを覚えるのです。   私たちに与えられている神様 の勝利は、初めから約束されていました。エバと蛇に語られたあの言葉のとおり、そして今日の本文のとおり、私たちの敵と戦ってくださる神様 のゆえに、私たちは勝利の人生を歩むことができます。一方で、ヨシュア記に示されているように、自分の力でその戦いに勝とうとするなら、私たちは敗北を経験することになるでしょう。   私たちの勝利の理由は、ほかの何でもありません。私たちが立ち向かうすべての敵に対して、神様 が共に立ち向かってくださるというその約束こそが、私たちの勝利の根拠なのです。 https://youtu.be/bzY_GhYNo1c?si=ECzYXe9Uigyn1I_Y

여호수아 묵상【승리의 이유】20251129(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

여호수아 10:15-28 10:15 여호수아가 온 이스라엘과 더불어 길갈 진영으로 돌아왔더라 10:16 그 다섯 왕들이 도망하여 막게다의 굴에 숨었더니 10:17 어떤 사람이 여호수아에게 고하여 이르되 막게다의 굴에 그 다섯 왕들이 숨은 것을 발견하였나이다 하니 10:18 여호수아가 이르되 굴 어귀에 큰 돌을 굴려 막고 사람을 그 곁에 두어 그들을 지키게 하고 10:19 너희는 지체하지 말고 너희 대적의…

ヨシュア記 黙想【奇跡を通して】20251128(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨシュア記 10:1-14 10:1 エルサレムの王アドニ・ツェデクは、ヨシュアがアイを攻め取って、それを聖絶し、エリコとその王にしたようにアイとその王にもしたこと、またギブオンの住民がイスラエルと和を講じて、彼らのただ中にいることを聞いた。 10:2 彼とその民は非常に恐れた。ギブオンが王国の都の一つのように大きな町であり、またアイよりも大きく、そこの人々がみな勇士だったからである。 10:3 エルサレムの王アドニ・ツェデクはヘブロンの王ホハム、ヤルムテの王ピルアム、ラキシュの王ヤフィア、エグロンの王デビルに人を遣わして言った。 10:4 「私のところに上って来て、私を助けてください。ギブオンを討ちましょう。ギブオンがヨシュア、およびイスラエルの子らと和を講じたからです。」 10:5 それでアモリ人の五人の王、すなわち、エルサレムの王、ヘブロンの王、ヤルムテの王、ラキシュの王、エグロンの王、彼らとその全陣営は集結し、上って行ってギブオンに向かって陣を敷き、戦いを挑んだ。 10:6 ギブオンの人々はヨシュアのところ、ギルガルの陣営に人を遣わして言った。「しもべどもから手を引かないで、急いで私たちのところに上って来て、私たちを救い、助けてください。山地に住むアモリ人の王たちがみな、私たちに向かって集まっているのです。」 10:7 ヨシュアはすべての戦う民たちとすべての勇士たちとともに、ギルガルから上って行った。 10:8 主はヨシュアに告げられた。「彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手に渡したからだ。あなたの前に立ちはだかる者は彼らの中に一人としていない。」 10:9 ヨシュアは夜通しギルガルから上って行って、突然彼らを襲った。 10:10 主は彼らをイスラエルの前でかき乱された。イスラエルはギブオンで彼らを激しく討ち、ベテ・ホロンの上り坂を通って彼らを追い、アゼカとマケダに至るまで彼らを討った。 10:11 彼らがイスラエルの前から逃げて、ベテ・ホロンの下り坂にいたとき、主が天から彼らの上に、大きな石をアゼカに至るまで降らせられたので、彼らは死んだ。イスラエルの子らが剣で殺した者よりも、雹の石で死んだ者のほうが多かった。 10:12 主がアモリ人をイスラエルの子らに渡されたその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。「太陽よ、ギブオンの上で動くな。月よ、アヤロンの谷で。」 10:13 民がその敵に復讐するまで、太陽は動かず、月はとどまった。これは『ヤシャルの書』に確かに記されている。太陽は天の中間にとどまって、まる一日ほど、急いで沈むことはなかった。 10:14 主が人の声を聞き入れられたこのような日は、前にも後にもなかった。主がイスラエルのために戦われたからである。   ヨシュア記に記されている征服戦争の物語には、神様ご自身が行われた多くの奇跡が登場します。そのため、ときにヨシュア記を読む読者や研究者の中には、疑問や批判を抱く者もいます。とりわけ、今日の本文にある「太陽と月がとどまった」という出来事は、最も頻繁に取り上げられる奇跡の一つです。    ヨシュア記だけでなく、聖書には数多くの奇跡が記録されています。私たちが常識や、これまでの科学技術の知識に照らして見たとき、到底不可能だと思われる事柄が、聖書の中では繰り返し起こっています。それでは、私たちはこれらの奇跡をどのように受け止めるべきなのでしょうか。    神様の奇跡は、気まぐれに乱発されるものではありません。聖書に記されたすべての奇跡、そしてその奇跡に基づく裁きでさえ、神の民と深く関わっています。それらの出来事は、確かに神様が造られたこの世界の法則を超えるもののように見えます。      しかし、それでもなお神様がそのような奇跡を行われるのは、神様がこの世界を、ご自身の民のために造られたからです。今日の本文にあるように、神様がイスラエルのために戦われたゆえに、これらすべての奇跡は可能となったのです。      神様が造られた世界の中で、神様にできないことは何一つありません。また、私たちがそのすべてを理解できるわけでもありません。私たちは聖書の奇跡を前にして、それを分析し、解明しようとするよりも、その奇跡を起こされた神様がどのようなお方であるかが、すでに明らかにされていることに目を向けるべきなのです。      そのような神様が、今日も私の人生に共におられ、私を愛し、救おうとしておられる――その事実をあらためて心に刻みながら歩んでいけばよいのです。 https://youtu.be/V0M1OKDUoRs?si=wrIbC_oRajbB5sQA

여호수아 묵상【기적을 대하는 자세】20251128(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

여호수아 10:1-14 10:1 그 때에 여호수아가 아이를 빼앗아 진멸하되 여리고와 그 왕에게 행한 것 같이 아이와 그 왕에게 행한 것과 또 기브온 주민이 이스라엘과 화친하여 그 중에 있다 함을 예루살렘 왕 아도니세덱이 듣고 10:2 크게 두려워하였으니 이는 기브온은 왕도와 같은 큰 성임이요 아이보다 크고 그 사람들은 다 강함이라 10:3 예루살렘 왕 아도니세덱이 헤브론 왕 호함과…