ヨハネによる福音書 黙想 【神殿カルテル】 20250107(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師  (복제)

ヨハネによる福音書 3:1~9 3:1 さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。 3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」 3:3 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」 3:4 ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」 3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。 3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。 3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。 3:8 風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」 3:9 ニコデモは答えた。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」   パリサイ派の中に「ニコデモ」という人物がいました。彼はサンヘドリン(ユダヤの最高議会)の議員であり、ユダヤ人社会のエリートでした。その彼が夜にイエス様を訪ねて会話を交わします。夜に訪れた理由は、人目に触れず、こっそりと会うためでした。人々の目を気にしながらも、ニコデモはどうしてもイエス様と話をしたかったのでしょう。それは、イエス様が行われた数々の奇跡を通して、イエス様が神から遣わされたお方であることを認めていたからです。 しかし、イエス様は目に見える不思議な出来事ではなく、目に見えない霊的な奥義について語られます。イエス様は、「人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできない」と言われています。ニコデモはそれを理解できず、肉体的な観点から質問を繰り返しますが、イエス様は霊的な新生の本質についてのみ語られます。「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。ヨハネ3:6-7」 しかし、8節の解釈は少し難しいです。「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。ヨハネ3:8」 ここで、「御霊によって生まれた者」とは、「思いのままに吹く風のような存在」を指しているのでしょうか。それとも、「どこから来て、どこへ行くのか分からない存在」を指しているのでしょうか。この解釈によって意味が変わります。 韓国語や日本語では曖昧に感じられる部分ですが、英語の翻訳やギリシャ語の原文を参考にすると、「霊から生まれた人」は風の自由な性質と結びついています。そうであれば、8節の風の話は「神秘的な聖霊についての記述」ではなく、「新しく生まれ変わった人の自由さについての記述」と読むべきです。つまり、「聖霊についての描写」ではなく、「聖霊によって新しく生まれた人についての描写」なのです。「分からない」という意味ではなく、「自由である」という意味なのです。 ニコデモはその夜、イエス様から、自分の地位や周囲の目を気にして自由になれない自分自身を戒められたのです。このように読むことで、ヨハネ3章の後半に続く「地上のことと天のこと」や「青銅の蛇の話」、さらにはヨハネ3章16節の背景が自然につながります。8節はこのような意味ではないでしょうか。「風は何かに縛られることなく自由に吹きますが、人々はその風の始まりや終わり、その軌跡について知ることはできません。新しく生まれ変わり、霊から生まれた人は、風が吹くように自由な人になるのです。」

요한복음 묵상 【성령으로 난 사람】 20250108(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 3:1~9 3:1 바리새인 중에 니고데모라 하는 사람이 있으니 유대인의 관원이라 3:2 그가 밤에 예수께 와서 가로되 랍비여 우리가 당신은 하나님께로서 오신 선생인줄 아나이다 하나님이 함께 하시지 아니하시면 당신의 행하시는 이 표적을 아무라도 할 수 없음이니이다 3:3 예수께서 대답하여 가라사대 진실로 진실로 네게 이르노니 사람이 거듭나지 아니하면 하나님 나라를 볼수 없느니라 3:4 니고데모가 가로되 사람이…

ヨハネによる福音書 黙想 【神殿カルテル】 20250107(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 2:13~25 2:13 さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。 2:14 そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、 2:15 細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、 2:16 鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」 2:17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。 2:18 すると、ユダヤ人たちがイエスに対して言った。「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか。」 2:19 イエスは彼らに答えられた。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」 2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか。」 2:21 しかし、イエスはご自分のからだという神殿について語られたのであった。 2:22 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた。 2:23 過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。 2:24 しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。すべての人を知っていたので、 2:25 人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。   イエス様は過越しの祭の期間にエルサレム神殿に上られました。当時、地中海地域の通貨は統一されていなかったため、各地から集まった人々は祭りに必要な供え物を購入したり、神殿税を納めるために両替をしなければなりませんでした。そのため、神殿内では商売をしていた商人や両替商がいましたが、彼らは無許可の露店商ではなく、神殿内で営業するためのいわゆる営業権、賃貸権を神殿権力から購入した事業者でした。イエス様は彼らをすべて追い出し、「わたしの父の家を商売の家にしてはならない」と厳しく警告されました。 大祭司は彼らから賃貸料に相当するコミッションを受け取っていた可能性があります。そして、商人や両替商たちはその対価として独占的な取引権を手に入れ、市場の一般的な価格よりも高い価格で取引を行い、利益を上げていまし。また、祭司は供え物の持ち込み基準や条件を厳格化し、それによって供え物の販売を促進し、収益の向上を支援していたことでしょう。このような利益構造によって生じた経済的負担は、神を礼拝しようとする貧しい人々に押し付けられていました。この不条理な構造こそが、イエス様が神殿を清められた背景にあります。民の純粋な信仰を利用し、利益を追求するいわゆる宗教的既得権者たちの「宗教コネクション」に対するイエス様の怒りが込められていたのです。 その後、神殿という神聖不可侵の権威を冒涜したとして攻撃を受けたイエス様に対し、ユダヤ人たちは「どのような権威でこのようなことをしているのか」と問いただしました。それに対してイエス様は、「この神殿を壊してみなさい。わたしは3日でそれを立て直す」と答えられました。神殿そのものを崇拝していた時代背景からすると、この発言は非常に挑発的で、不敬なものと受け取られました。しかし、イエス様が指し示されたのは建物としての神殿ではありませんでした。それは、神そのものであるイエス様が十字架で死なれた後、3日目に復活されることを予告されたものだったのです。 目に見えない神を目に見える形にし、それに権威を与え、その権威に座って自分の欲望を満たそうとする宗教勢力は、いつの時代にもどこにでも存在します。これからも存在し続けるでしょう。それは厳密に言えば、純粋だった信仰が腐敗し堕落したのではなく、偽物が入り込んだということです。信仰は、その偽物を許した責任を負わなければなりません。食べ物が溜まればハエが湧くように、その「ハエ」たちが自分たちの利益を脅かそうとするイエス様を殺したのです。しかしイエス様は、建物を神と偽り、不正な欲望に囚われた宗教を打ち壊し、そんな希望のない人間を救うために、復活の福音を成し遂げられるのです。

요한복음 묵상 【성전 카르텔】 20250107(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 2:13~25 2:13 유대인의 유월절이 가까운지라 예수께서 예루살렘으로 올라가셨더니 2:14 성전 안에서 소와 양과 비둘기 파는 사람들과 돈 바꾸는 사람들의 앉은 것을 보시고 2:15 노끈으로 채찍을 만드사 양이나 소를 다 성전에서 내어 쫓으시고 돈 바꾸는 사람들의 돈을 쏟으시며 상을 엎으시고 2:16 비둘기 파는 사람들에게 이르시되 이것을 여기서 가져가라 내 아버지의 집으로 장사하는 집을 만들지 말라…

ヨハネによる福音書 黙想 【霊的再生のプロローグ】 20250106(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 2:1~12 2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。 2:2 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。 2:3 ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。 2:4 すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」 2:5 母は給仕の者たちに言った。「あの方が言われることは、何でもしてください。」 2:6 そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二あるいは三メトレテス入りのものであった。 2:7 イエスは給仕の者たちに言われた。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。 2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。 2:9 宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。それで、花婿を呼んで、 2:10 こう言った。「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」 2:11 イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。 2:12 その後イエスは、母と弟たち、そして弟子たちとともにカペナウムに下って行き、長い日数ではなかったが、そこに滞在された。   カナの婚宴で水がぶどう酒に変わった出来事は、イエス様が行われた最初の奇跡です。イエス様はまだ時が来ていないと言われ、消極的な態度を示されましたが、母マリアの願いを受け入れ、この奇跡を行われました。召使いが壺に水を満たし、それを宴会の席に持っていくと、それはぶどう酒に変わりました。客たちは花婿が最初よりも後にさらに良いぶどう酒を出したと称賛しました。 婚宴の最中にぶどう酒が尽きることは、主催者にとって非常に困難な状況です。それを見たマリアは気まずく思い、イエス様にお願いしました。そしてイエス様はその不足と困難を最上のものと称賛に変えられました。ただ補うだけではなく、質的にも量的にも完全に変化させられました。普通の川辺の水が、六つの壺いっぱいの高級なぶどう酒に変わったのです。 神様が人間のところに来られるとき、人間が受ける恵みもこのようなものです。水が高級なぶどう酒に変わり、絶望が希望に変わります。滅びが救いに、死が命に、罪人が義人に変えられます。それはただの見かけの変化ではなく、本質的にぶどう酒へと変えられたのです。 ヨハネによる福音書2章は、イエス様が水をぶどう酒に変えられた奇跡から始まりますが、復活後の最後の奇跡はヨハネによる福音書21章に記された、ティベリアの海での出来事です。夜通し魚を捕れずに落胆していた弟子たちに、イエス様は「船の右側に網を投げなさい」と言われます。弟子たちがそれに従うと、網が満杯になるほど魚を捕ることができました。 ヨハネによる福音書2章から21章に記されたすべての奇跡は、絶望が希望に変わり、不足が単に補われるのではなく、むしろ満ちあふれる奇跡です。「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。ヨハネによる福音書10:10」主が変えてくださる良いもので満たされることを祈ります。

요한복음 묵상 【영적 재생의 프롤로그】 20250106(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 2:1~12 2:1 사흘 되던 날에 갈릴리 가나에 혼인이 있어 예수의 어머니도 거기 계시고 2:2 예수와 그 제자들도 혼인에 청함을 받았더니 2:3 포도주가 모자란지라 예수의 어머니가 예수에게 이르되 저희에게 포도주가 없다 하니 2:4 예수께서 가라사대 여자여 나와 무슨 상관이 있나이까 내 때가 아직 이르지 못하였나이다 2:5 그 어머니가 하인들에게 이르되 너희에게 무슨 말씀을 하시든지 그대로…

ヨハネの福音書 黙想 【最高の証言】 20250104(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨハネの福音書 1:29-42 1:29 その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。 1:30 『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。 1:31 私自身もこの方を知りませんでした。しかし、私が来て水でバプテスマを授けているのは、この方がイスラエルに明らかにされるためです。」 1:32 そして、ヨハネはこのように証しした。「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。 1:33 私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』 1:34 私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」 1:35 その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。 1:36 そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。 1:37 二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。 1:38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」 1:39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。時はおよそ第十の時であった。 1:40 ヨハネから聞いてイエスについて行った二人のうちの一人は、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。 1:41 彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った」と言った。 1:42 彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンを見つめて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(言い換えれば、ペテロ)と呼ばれます。」  バプテスマのヨハネは再びイエス・キリストについて証言しました。 そして今日の箇所で見れるバプテスマのヨハネの証言の結果が、彼の弟子たちがイエス様に従うようになったことです。 そして、これらの証言は次の証言を生み出します。 まさに今日の箇所で、アンデレが自分の兄弟シモンにイエス·・キリストを証言する場面です。  そして、そのような証言が2000年の間絶えず証言され、今の私たちにまで証言されているのです。 そして、私たちもなお、私たちが受けたこの証言のバトンを続けて次に渡さなければなりません。それなら、私たちは何を証言すればいいのでしょうか。  この時代の私たちは、教会の中で証言といえば、ある人の証、記憶に残っている素晴らしい説教などがまず思い浮かぶでしょう。 勿論のこと、これらも立派な証言でありますが、私たちはその中でも最も根本的な証言を常に覚え、私たちも同じく証言しなければなりません。 それは聖書の御言葉の証言そのものです。  神様の最初の約束から今日の箇所のバプテスマのヨハネに至るまで、すべての預言者たちは自分の個人的な体験を越え、神様の御言葉そのものを通して神様を、そして来るべきメシアを証言しました。 そして今の時代に至るまで、イエス様への証言が聖書に基づいて行われたため、聖書の御言葉より教皇の言葉が優先であった当時のカトリックに抵抗してまで、私たちは聖書を最高の権威を持つ御言葉として信じる信仰を守って来たのです。  私たちがこの世の中で証言しなければならないこと、私たちの生き方を通して、私たちの経験を通して神様を証することも重要なことです。しかし、最後には本質に戻らなければなりません。 聖書の御言葉という本質で勝負しなければなりません。 それが私たちにできる、やるべき最高の証言です。 https://youtu.be/DXNhYhfQOZU?si=ksViVutVJ7cfBwll

요한복음 묵상 【최고의 증언】 20250104(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

요한복음 1:29-42 1:29 이튿날 요한이 예수께서 자기에게 나아오심을 보고 이르되 보라 세상 죄를 지고 가는 하나님의 어린 양이로다 1:30 내가 전에 말하기를 내 뒤에 오는 사람이 있는데 나보다 앞선 것은 그가 나보다 먼저 계심이라 한 것이 이 사람을 가리킴이라 1:31 나도 그를 알지 못하였으나 내가 와서 물로 세례를 베푸는 것은 그를 이스라엘에 나타내려 함이라 하니라…

ヨハネの福音書 黙想 【あなたはどなたですか】 20250103(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨハネの福音書 1:19-28 1:19 さて、ヨハネの証しはこうである。ユダヤ人たちが、祭司たちとレビ人たちをエルサレムから遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねたとき、 1:20 ヨハネはためらうことなく告白し、「私はキリストではありません」と明言した。 1:21 彼らはヨハネに尋ねた。「それでは、何者なのですか。あなたはエリヤですか。」ヨハネは「違います」と言った。「では、あの預言者ですか。」ヨハネは「違います」と答えた。 1:22 それで、彼らはヨハネに言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人たちに返事を伝えたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」 1:23 ヨハネは言った。「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です。」 1:24 彼らは、パリサイ人から遣わされて来ていた。 1:25 彼らはヨハネに尋ねた。「キリストでもなく、エリヤでもなく、あの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」 1:26 ヨハネは彼らに答えた。「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。 1:27 その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」 1:28 このことがあったのは、ヨルダンの川向こうのベタニアであった。ヨハネはそこでバプテスマを授けていたのである。 「汝自身を知れ」という哲学界の有名な名言があります。 しかし、哲学という学問の本質がそうであるように、哲学という学問を越えて、私たちの人生のすべての所に、この言葉、自らを知ることは凄く重要なことです。 「汝自身を知れ」の東洋バージョンである「彼をしり己を知れば百戦危うからず」という言葉もやはり敵を知ることにとどまらず、自分自身を知ることまでが条件になります。    このような自分を知ることは、私たちの信仰においても重要な役割をしています。 私たちが自分の存在を明確に知ってからこそ、神様の御前に謙虚になることができるからです。 すると、私たちはどうやって自分を知ることができるのでしょうか。 これについて多くの神学者は、「人について知るためにはまず神を知るべき」と言っています。    そういう意味で自分自身がどんな存在なのかを正しく知り、その役割に誠実だった今日の箇所のバプテスマのヨハネは、自分自身を知ることと同時に、神様のことを良く知っていたとも言えます。 だからこそ、後に来られる方、イエス・キリストと、その公の生涯の働きについて確信を持って語ることができたのです。    今日、パリサイ人から送られた人々がバプテスマのヨハネに尋ねたように、世の中は絶えず私たち一人一人に、そして教会に「あなたはどなたですか」と尋ねています。 そして、私たちはこの質問に対して、彼らにだけではなく、私たち自分自身に、そして神様にも、その答えをしなければなりません。 私たちは一体だれでしょうか。 私たちの神様、イエス様は一体どんな方でしょうか。    答えはいつも神様にあります。 神様だけが私たちを造り、私たちの道を計画し、導く方、私たちについて最も詳しい方であるからです。そして、その神様はいつも私たちに自分の御言葉を通して、神自身について教え、私たちの存在について教えておられます。    2025年が始まりました。 一年の願望、または目標を立てていくこの時期に、神様を知って自分を知ること、そのために神様の御言葉とさらに親密な関係を持つ一年の願望、目標を共にに立てられたらと思います。 https://youtu.be/mBxIuYe1Xwk?si=QMplbJBDfY4lzU3J

요한복음 묵상 【네가 누구냐】 20250103(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

요한복음 1:19-28 1:19 유대인들이 예루살렘에서 제사장들과 레위인들을 요한에게 보내어 네가 누구냐 물을 때에 요한의 증언이 이러하니라 1:20 요한이 드러내어 말하고 숨기지 아니하니 드러내어 하는 말이 나는 그리스도가 아니라 한대 1:21 또 묻되 그러면 누구냐 네가 엘리야냐 이르되 나는 아니라 또 묻되 네가 그 선지자냐 대답하되 아니라 1:22 또 말하되 누구냐 우리를 보낸 이들에게 대답하게 하라…