ヨハネによる福音書 黙想 【良心を生かす奇跡】 20250127(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
ヨハネによる福音書 7:53~8:11 7:53 〔人々はそれぞれ家に帰って行った。 8:1 イエスはオリーブ山に行かれた。 8:2 そして朝早く、イエスは再び宮に入られた。人々はみな、みもとに寄って来た。イエスは腰を下ろして、彼らに教え始められた。 8:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。 8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」 8:6 彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。 8:7 しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」 8:8 そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。 8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。 8:10 イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」 8:11 彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」〕 イエス様がオリーブ山におられたとき、律法学者たちとパリサイ人たちは姦淫の現場で捕まった女性をイエスのもとに連れてきて、「律法に従ってこの女性を石打ちにすべきだ」と言いました。イエス様は身をかがめて地面に何かを書きながら、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」と言われました。その言葉を聞いた人々は良心の呵責を覚え、一人ずつその場を立ち去り、最後にはイエスと女性だけが残りました。イエス様はその女性をも裁かず、「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」と言われ、彼女を送り出されました。 ユダヤ人たちが姦淫した女性をイエス様のもとに連れてきたのは、ユダヤの律法とローマの法の矛盾を利用してイエス様を困難な状況に追い込むための罠でした。レビ記や申命記では姦淫した女性を石打ちの刑にするよう定められています。しかし当時、死刑執行権はローマが握っていたため、イエスがユダヤ律法を擁護すればローマへの越権行為となり、逆にそれを否定すれば律法違反となるジレンマに陥る仕組みでした。 この女性はユダヤ人たちのこうした策略に巻き込まれた被害者だったのかもしれません。また、姦淫の相手である男性は連れてこられませんでした。もしかするとその男性は、女性を姦淫の現行犯として捕まえるために近づいた者の可能性も考えられます。もしそうだとすれば、この事件は恋愛による不倫や情事ではなく、生計を立てるための性売買に関わる出来事だった可能性が高いでしょう。そうでなければ、ユダヤ人たちがタイミングよく、しかもイエス様がいる現場で姦淫の現行犯を捕まえることはできなかったはずです。 この本文を読むたびに、いくつかの疑問が湧いてきました。まず、イエス様が身をかがめて指で地面に書いたものは何だったのか?指で書いたということは、詳細な文章ではなく、簡潔な何かだったのだと思われます。それはどんな内容で、誰に向けたメッセージだったのか?さらに、イエス様に敵対していたユダヤ人たちがなぜ石を置き、素直に立ち去ったのか?それはイエス様が地面に書いた内容と関係があったのでしょうか? はっきりしているのは、イエス様が地面に何かを書かれた後、人々の態度が変わったことです。イエス様を陥れ、罠にかけようと集まっていた人々が良心の呵責を覚え、立ち去ったのです。その過程でイエス様は「罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」と言われました。もし偏見に満ち、煽動され、感情が高ぶっている人々であれば、ためらうことなく石を手に取り投げたでしょう。しかし彼らはそうしませんでした。それは、イエス様が地面に書かれた何かを見て、良心が働き始めたからではないでしょうか。 年長者から順に自分の罪を悟り、最後に若者が立ち去りました。地面に何が書かれていたかは分かりませんが、本文に記されたいくつかの手がかりを考えると、人間の良心が目覚めるなら、滅びを免れることができるということを示しています。この女性はユダヤ人たちの政治的陰謀に巻き込まれた犠牲者だった可能性があります。政治的な策略、卑劣な妨害、暴力と破壊が支配する世界の中でも、もし一つの良心が目覚めるなら、滅びることなく勝利することができるのです。イエス様が地面に指で書かれたものは分かりませんが、それは確かに彼らの良心を呼び覚ますものでした。 神様の御言葉を聞いても良心が痛まない人こそ、最も不幸な人です。彼らは罠を仕掛けても自らその罠に落ちるでしょう。しかし、心が刺され、良心の呵責を覚えた人は、手に持った石をおろすべきです。良心が戻れば、闘争的で暴力的だった人々の正気も戻るでしょう。そして、神様の憐れみと救いを思い起こし、共に生きるべき価値について考えるようになるでしょう。これは「姦淫してもゆるされる」という教訓ではなく、良心さえ生きていれば、滅びる人を救うことができるという教訓として読むべきです。これはイエス様が起こされたもう一つの奇跡の物語であり、その奇跡は人々に良心の呵責を感じさせるものでした。