ヨハネによる福音書 黙想 【どこから来て、どこへ行くのか】 20250128(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
ヨハネによる福音書 8:12~20 8:12 イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」 8:13 すると、パリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分で自分のことを証ししています。だから、あなたの証しは真実ではありません。」 8:14 イエスは彼らに答えられた。「たとえ、わたしが自分自身について証しをしても、わたしの証しは真実です。わたしは自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのかを知っているのですから。しかしあなたがたは、わたしがどこから来て、どこへ行くのかを知りません。 8:15 あなたがたは肉によってさばきますが、わたしはだれもさばきません。 8:16 たとえ、わたしがさばくとしても、わたしのさばきは真実です。わたしは一人ではなく、わたしとわたしを遣わした父がさばくからです。 8:17 あなたがたの律法にも、二人の人による証しは真実であると書かれています。 8:18 わたしは自分について証しする者です。またわたしを遣わした父が、わたしについて証ししておられます。」 8:19 すると、彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしも、わたしの父も知りません。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知っていたでしょう。」 8:20 イエスは、宮で教えていたとき、献金箱の近くでこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。 イエス様がご自身を「世の光」であると語られると、パリサイ人たちは「自己賛美」に過ぎず、信用できないと反発しました。イエス様は暗闇の中で光となる希望について語られましたが、彼らがそれを受け入れなかったため、今度は始まりと終わりについて語られました。イエス様は、ご自身がどこから来て、どこへ行くのかをご存じであると仰せになりました。これはパリサイ人たちに、自分たちの人生がどこから来て、どこへ向かうのかを知らないという無知を自覚させるためのものでした。 パリサイ人たちは、自分たちに光がなければ何も見ることができないという無力さを認識すべきでした。誰も自分がどこから来たのか、どこへ向かっているのかを知りません。それこそが、人間が神様を信じざるを得ない切迫した理由なのです。人間は自分の起源、目的、そして結果について知ることができないため、真理に至る唯一の道、すなわち信仰を通じてのみ答えを見出すことができます。 「私たちが地球に存在している状況は奇妙だ。私たちは誰も望まれることなく、招かれることもなく、ただ一時的にここに留まり、なぜここにいるのかを知らない。」これはアルベルト・アインシュタインの言葉です。彼は光、時間、空間の秘密を解き明かし、物理学の基礎を刷新した偉大な科学者です。しかし、彼自身もどこから来たのか、どこへ行くのか、そしてなぜここにいるのかを知らないと語りました。それは無能や無知ではありません。「知らない」ということを知ることこそが、科学的発見を超える人間の偉大な発見です。人間は必ず「知らない」という壁にぶつかるようになっており、そこで初めて信仰と告白が始まります。人間の暗闇と無知の絶望を通らずして、光と起源について知ることはできないのです。 どこから来てどこへ行くのかを知っている人は誰もいません。しかし、時空を超越する神であるイエス様は、すべての始まりと終わりをご存じです。イエス様は、私がどこから来て、どこへ向かっているのかもご存じです。イエス様が語られる「始まりと終わり」は時間の境界ではなく、人間存在の意味を含んでいます。イエス様はアルファでありオメガであり、人間の始まりと目的、そしてその終わりを知っておられるお方です。魂はその中で安心を得、その告白の中で平安を得ます。