ヨハネによる福音書 黙想 【わたしのことばにとどまるなら】 20250130(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 8:31~47 8:31 イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。 8:32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」 8:33 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」 8:34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。 8:35 奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。 8:36 ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。 8:37 わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかし、あなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。 8:38 わたしは父のもとで見たことを話しています。あなたがたは、あなたがたの父から聞いたことを行っています。」 8:39 彼らはイエスに答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行うはずです。 8:40 ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに語った者であるわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことをしませんでした。 8:41 あなたがたは、あなたがたの父がすることを行っているのです。」すると、彼らは言った。「私たちは淫らな行いによって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神がいます。」 8:42 イエスは言われた。「神があなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。わたしは神のもとから来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わされたのです。 8:43 あなたがたは、なぜわたしの話が分からないのですか。それは、わたしのことばに聞き従うことができないからです。 8:44 あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。 8:45 しかし、このわたしは真理を話しているので、あなたがたはわたしを信じません。 8:46 あなたがたのうちのだれが、わたしに罪があると責めることができますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。 8:47 神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」 イエス様が語られるイエス様の弟子とは、御言葉の中にとどまる人のことです。御言葉の中にいることで真理を悟り、真理を見出した人は、非真理によって複雑になった心と魂が解放され、自由になります。しかし、ユダヤ人たちは自分たちの矛盾に気づいていませんでした。彼らは混乱していました。自分たちはアブラハムの子孫だから自由な存在であると主張しましたが、それは宗教的な誇りが生み出した霊的な自己欺瞞であり、虚偽の確信にすぎませんでした。 イエス様は彼らの現実を指摘されます。彼らはアブラハムの子孫ではなく、罪の奴隷であると語られました。神の子は神の言葉を聞くものですが、彼らはそれを聞こうとしませんでした。それによって彼ら自身が神に属していないことを証明してしまったのです。ユダヤ人たちの矛盾を見ながら、驚かずにはいられません。イエス様は彼らを「悪魔の子」と言われましたが、彼らは自分たちがアブラハムの子孫、すなわち神の子だと信じていました。御言葉の前でどのような態度を取るかによって、決まるということは、実に恐ろしいことです。 教会の中には「御言葉」という言葉がどれほど多く語られているでしょうか。しかし、御言葉が真に「御言葉」となるのは、その御言葉と自分自身の関係の中においてです。真の弟子とは、御言葉を受け、自分の生活の場に戻ってその御言葉と格闘せずにはいられない人です。そのような人だけが神の御言葉を内に宿し、この世の束縛から自由にされるのです。基準が明確な人は、流されず、揺るがされることのない自由な人です。御言葉と格闘し、その御言葉が自分を打ち破り、ついにはその御言葉が自分自身となること——その御言葉の中に生きる人こそが自由な人であり、彼こそがイエス・キリストの弟子です。今一度、自分と御言葉との関係を点検しなければなりません。

요한복음 묵상 【너희가 내 말에 거하면】 20250130(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 8:31~47 8:31 그러므로 예수께서 자기를 믿은 유대인들에게 이르시되 너희가 내 말에 거하면 참 내 제자가 되고 8:32 진리를 알지니 진리가 너희를 자유케 하리라 8:33 저희가 대답하되 우리가 아브라함의 자손이라 남의 종이 된 적이 없거늘 어찌하여 우리가 자유케 되리라 하느냐 8:34 예수께서 대답하시되 진실로 진실로 너희에게 이르노니 죄를 범하는 자마다 죄의 종이라 8:35 종은 영원히…

요한복음 묵상 【너희가 내 말에 거하면】 20250130(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 8:21~30 8:21 다시 이르시되 내가 가리니 너희가 나를 찾다가 너희 죄 가운데서 죽겠고 나의 가는 곳에는 너희가 오지 못하리라 8:22 유대인들이 가로되 저가 나의 가는 곳에는 너희가 오지 못하리라 하니 저가 자결하려는가 8:23 예수께서 가라사대 너희는 아래서 났고 나는 위에서 났으며 너희는 이 세상에 속하였고 나는 이 세상에 속하지 아니하였느니라 8:24 이러므로 내가 너희에게…

ヨハネによる福音書 黙想 【説明しない】 20250129(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師  (복제)

ヨハネによる福音書 8:21~30 8:21 イエスは再び彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」 8:22 そこで、ユダヤ人たちは言った。「『わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません』と言うが、まさか自殺するつもりではないだろう。」 8:23 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは下から来た者ですが、わたしは上から来た者です。あなたがたはこの世の者ですが、わたしはこの世の者ではありません。 8:24 それで、あなたがたは自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」 8:25 そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれなのですか。」イエスは言われた。「それこそ、初めからあなたがたに話していることではありませんか。 8:26 わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わされた方は真実であって、わたしはその方から聞いたことを、そのまま世に対して語っているのです。」 8:27 彼らは、イエスが父について語っておられることを理解していなかった。 8:28 そこで、イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。 8:29 わたしを遣わした方は、わたしとともにおられます。わたしを一人残されることはありません。わたしは、その方が喜ばれることをいつも行うからです。」 8:30 イエスがこれらのことを話されると、多くの者がイエスを信じた。 イエス様は、ご自身が行かれる所にユダヤ人たちは来ることができず、彼らは罪の中で死ぬと言われました。人々はイエス様のお言葉を理解できませんでしたが、続けてイエス様はご自身が世に属しておられないため、自分を信じない人々は罪の中で死ぬと警告されました。イエス様はただ父なる神様から受けた御言葉だけを伝え、神様の御心を行うと言われました。これをを聞いて多くの人々が信じるようになりました。 福音を知っており、今この本文を読んでいる私たちは、簡単な解説を通じてこの御言葉の意味を理解することができます。しかし、当時、基礎的な情報を持っていない人々にとっては、イエス様の言葉を確実に理解するのは難しかったことでしょう。なぜなら、イエス様はわかりやすく説明したり、納得させようとされたのではなく、ただ宣言されていたからです。 今日の本文でイエス様が語られたことはすべて真理です。真理の本質は客観的であり、絶対的なものです。それが真理の本質であり、その真理の伝達方法は「宣言」です。説明は宣言を補完することはできますが、本質ではありません。イエス様が神様であり、イエス様を信じなければ罪の中で滅びること、そしてイエス様がなされているすべての御業が神様の御業であるという事実は、説明して同意を求めるのではなく、宣言されるべきことです。 30節で信じた多くの人々は、理解したのではなく、宣言を受け入れたのです。神様から与えられた信仰とはそのようなものです。真理は宣言され、人間には信仰が求められます。それは、人間の論理や説明が神様を証明する道具になることができないからです。それは非知性的で盲目的な信仰を強いるものとは異なります。ジェームズ・パッカーはその名著『神を知る知識(Knowin God)』で、「福音の真理は論理的な説明を通じて説得するものではなく、神の権威によって宣言されるものであり、それは信者に信仰と決断を求めるものである」と述べました。説明は論拠と論証に依存しますが、宣言は真理に依存し、信仰によって行われます。教会に委ねられた役割の核心は、神様の権威と福音の宣言です。