ヨハネの福音書 黙想 【目に見えても】 20250201(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生
ヨハネの福音書 9:1-12 9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。 9:2 弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」 9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。 9:4 わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。 9:5 わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」 9:6 イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、 9:7 「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。 9:8 近所の人たちや、彼が物乞いであったのを前に見ていた人たちが言った。「これは座って物乞いをしていた人ではないか。」 9:9 ある者たちは、「そうだ」と言い、ほかの者たちは「違う。似ているだけだ」と言った。当人は、「私がその人です」と言った。 9:10 そこで、彼らは言った。「では、おまえの目はどのようにして開いたのか。」 9:11 彼は答えた。「イエスという方が泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」 9:12 彼らが「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と答えた。 人は目に見えるものに頼ってしまう傾向を持っています。 そのため、何かを認識するために、その対象を見るという行為はとても重要で、大きな意味を持っています。 このようなことで、へブル人への手紙の記者は信仰を通して私たちの目に見えない神様、そしてその約束を信頼し、実際に目の前にあるものを見ているように認識することができると、信仰について説明しました。 その逆に言えば、私たちの目に見えていても、それが全部ではないということにもなります。 実際、私たちは目に見えるものに頼るあまりに、目に見えない本質的なものを見逃してしまうことも良くあります。 今日の箇所の弟子たちや、これまでの箇所の中で登場したユダヤ人律法学者たちがその例です。 彼らは目に見える「律法」を認識し、従っていました。 そのため、今日弟子たちは生まれた時から目の見えない人を見て、その原因がその人の罪、あるいは彼の両親の罪にあると推測しました。 それが彼らが認識していた律法であったからです。 しかし、イエスは目に見える律法を越え、より根本的なところに焦点を合わせました。 まさに神様の意図でした。 生まれた時から目が見えなかった人は、この事件を通して今までイエス様を目で見てきた者たちよりも正確に、確実にイエス様について知ることになったはずです。 他の人々は見られなかったイエス様の本質を、彼は目に見えるものに頼らなかったことで、より正確に知ることができたのです。 今日の箇所の最後の節では、人々がそのイエス様がどこにいるのか、目が見えなかった人に聞きます。 今も彼らはイエス様を目で見ることを望んでいるのです。 しかし、目が見えなかった人はイエス様がどこに行かれたのかは分かりませんでした。 しかし、一つ推測できることは、人々はイエス様がどこに行かれたか探し続けても、目が見えなかった人はこれ以上イエス様がどこに行かれたのか探さなくてもよかったでしょう。 目に見えなくてもイエス様が自分と共にしていることを知ることになったからです。 https://youtu.be/bNQ2CnFGtuU?si=zRuM5llyWRv8Q3SF