ヨハネによる福音書 黙想 【わたしは良い牧者です】 20250205(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
ヨハネによる福音書 10:11~21 10:11 わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。 10:12 牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。 10:13 彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。 10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。 10:15 ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。 10:16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。 10:17 わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。 10:18 だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」 10:19 これらのことばのために、ユダヤ人たちの間に再び分裂が生じた。 10:20 彼らのうちの多くの人が言った。「彼は悪霊につかれておかしくなっている。どうしてあなたがたは、彼の言うことを聞くのか。」 10:21 ほかの者たちは言った。「これは悪霊につかれた人のことばではない。見えない人の目を開けることを、悪霊ができるというのか。」 イエス様は良い羊飼いとして、ご自身の命を羊のために捨てると語られ、その反対の意味として雇い人を批判されました。雇い人(hireling)とは、全責任を負うことなく、決められた時間や限られた役割の中で働く雇われた者のことを指します。したがって、雇い人という言葉自体が悪い意味を持つわけではありません。しかし、ここでは責任を負わずに権利ばかりを求める人、つまり自分に利益がなく、損失や危険が伴うと羊を捨てて逃げるような人を指します。当時のユダヤの宗教は、民を守ることができるはずもありませんでした。 社会人にとって、報酬や利益は誰にとっても重要なものですが、すべてがそのような仕組みで動くわけではありません。子どもへの愛は、見返りがなくてもより多く注ごうと努力するのが、普通の親の心です。もし親が金銭を受け取り、決められた時間と限られた役割のみを果たし、それ以外の責任を負おうとしなかったら、人々はその人が本当に親であるのか疑うでしょう。オーナーシップを持つ人は、常に全体に対する関心を失うことはありません。使命感を持つ人は、その報酬や利益がどのようなものであれ、責任を果たそうとします。責任を負おうとしない時代だと言われていますが、家庭、教会、職場のすべての共同体は、今もなお使命感を持ち、責任を果たす人を求めています。 しかし、ヨハネによる福音書10章で語られている良い羊飼い、真の羊飼いとは、良い牧師や悪い牧師のことを指しているのではありません。人間は誰も、人間を対象に良い羊飼い(Good Shepherd)となることはできません。私たちの羊飼いは、ただイエス様だけです。良い牧師とは、良い羊飼いであるイエス様に従い、駆け回る羊飼い犬(Sheepdog)のような存在です。誰一人として、十字架を背負い、代わりに死ぬことができる羊飼いがいなかったからこそ、イエス様が来られたのです。イエス様は報酬を得るために来られたのではありません。使命を持ち、全責任を負うために来られました。私たちを救い、最後まで責任を負うのは、人間ではなくイエス様です。人がイエス様の声を聞くためには、必死の努力をしなければなりません。