요한복음 묵상 【깨어진 옥합, 쏟아진 향유】 20250212(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 12:1~11 12:1 유월절 엿새 전에 예수께서 베다니에 이르시니 이곳은 예수께서 죽은 자 가운데서 살리신 나사로의 있는 곳이라 12:2 거기서 예수를 위하여 잔치할새 마르다는 일을 보고 나사로는 예수와 함께 앉은자 중에 있더라 12:3 마리아는 지극히 비싼 향유 곧 순전한 나드 한 근을 가져다가 예수의 발에 붓고 자기 머리털로 그의 발을 씻으니 향유 냄새가 집에 가득하더라…

요한복음 묵상 【깨어진 옥합, 쏟아진 향유】 20250212(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사 (복제)

요한복음 12:1~11 12:1 유월절 엿새 전에 예수께서 베다니에 이르시니 이곳은 예수께서 죽은 자 가운데서 살리신 나사로의 있는 곳이라 12:2 거기서 예수를 위하여 잔치할새 마르다는 일을 보고 나사로는 예수와 함께 앉은자 중에 있더라 12:3 마리아는 지극히 비싼 향유 곧 순전한 나드 한 근을 가져다가 예수의 발에 붓고 자기 머리털로 그의 발을 씻으니 향유 냄새가 집에 가득하더라…

ヨハネによる福音書 黙想 【割れた壺、注がれた香油】 20250212(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 12:1~11 12:1 さて、イエスは過越の祭りの六日前にベタニアに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。 12:2 人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し、ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。 12:3 一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。 12:4 弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。 12:5 「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」 12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。 12:7 イエスは言われた。「そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。 12:8 貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいますが、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。」 12:9 すると、大勢のユダヤ人の群衆が、そこにイエスがおられると知って、やって来た。イエスに会うためだけではなく、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。 12:10 祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。 12:11 彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。   イエス様はラザロの出来事の後、殺害の陰謀が始まると、荒野に近いエフライムという場所に行かれ、過越の祭りの六日前に再びベタニアに戻られました。過越の祭りの六日前とは、イエス様の死が近づいていることを意味します。世の罪を負う小羊は過越の祭りに血を流されるからです。したがって、本日の本文の香油の壺の出来事は受難週の始まりです。イエス様が再びベタニアに戻られたのは、時が来て十字架を背負うため、苦しみを受けるためでした。 マリアは高価な純粋なナルドの香油をイエス様の足に注ぎ、自分の髪で拭いました。壺を砕いて注ぎ、髪でイエス様の足を拭ったため、それは取り返しのつかない方法で完全に消費されました。その価値は当時の労働者の一年分の賃金に相当するものでした。彼女はそれを現金に換えて献金したのではなく、壺ごと包装して贈り物として捧げたのでもありません。マリアは再び取り戻せないように、その壺を砕き、惜しみなく注ぎ尽くして捧げたのです。人間イエスは苦難が始まるその日に、マリアと彼女が捧げた香油によって慰められたことでしょう。 まるで全焼のいけにえを捧げるとき、何一つ残さず完全に焼き尽くすように、彼女は惜しみなく捧げました。その価値は香油の値段にあるのではなく、完全に捧げたいと願った彼女の心にあります。神様に自分の心を捧げるとき、惜しみなく、ためらいなく、後悔なく、完全に燃え尽きるように捧げること、それにこそ真の価値があります。ユダのように計算する人、神様と取引をする人、陰で何かを隠し持つ人には、この完全に捧げる礼拝の喜びを知ることはできません。 ツァレファテのやもめは最後の一握りの粉と油でエリヤをもてなし、やもめの二レプタの話の本質もまたすべてを捧げること、完全であることにあります。マリアの香油が美しいのは、その香りが良いからでも、その値段が高いからでもなく、すべてを捧げてもなお、もっと捧げたいという純粋な心があったからです。アナニヤとサッピラが突然死したことよりも、もっと哀れなことは、彼らが香油を砕いて捧げる喜びを知らなかったことです。 弟子たちの中で会計を担当していたイスカリオテのユダは、マリアが捧げた香油を経済的価値に換算しました。そして、それを売って貧しい人々を助けなかったことを非難しました。しかし、ユダの本当の関心は貧しい人々にあるのではなく、現金そのものにありました。もっと具体的に言えば、マリアが香油の壺を献納すれば、自分がそれを現金化し、自分の意志で管理し、流用あるいは横領することもできたのです。そのため、ヨハネはユダを盗人と指摘しました。ユダが哀れなのは、神様の前にいながら、神様に従うふりをしながら、一生計算ばかりして生きたことです。 マリアの香油はラザロを生き返らせてくださったことへの感謝ではなく、イエス様のお葬式の準備でした。マリアが当時その意味を理解していなかったとしても、イエス様とヨハネ福音書は香油の壺の出来事をそのように定義しています。マリアはイエス様のために最も良いものを捧げたいと願い、ユダは自分のために計算に没頭していました。 その結果、マリアの香油は、イエス様のお葬式のために捧げられた最初の香ばしい供え物となり、永遠に記憶されました。一方、経済的価値ばかりを求めたユダの合理主義は、「血の畑」で内臓が裂けて死ぬ結末を迎えました。ユダと同じように計算に長けた祭司長たちも、イエス様を殺すだけでなく、ラザロまで殺そうと計算していました。