ヨハネによる福音書 20:11~23
20:11 一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
20:12 すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。
20:13 彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」
20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。
20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」
20:16 イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。
20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」
20:18 マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20:20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
20:21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
20:22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
マリアが墓の前で泣いていると、復活されたイエス様が現れました。マリアは復活されたイエス様を見ました。しかし、マリアはイエス様を一目で見分けることができませんでした。エマオへ向かう弟子たちも同じでした。しばらくイエス様と会話を交わしましたが、イエス様だとは気づきませんでした。
弟子たちはイエス様を認識できず、朝に空の墓を見ましたが、その状況を解釈することができませんでした。その日の夕方にも、弟子たちはイエス様の残党として逮捕されるのではないかと恐れていました。扉が閉まっているとき、扉を開けずに室内に入ってこられたイエス様は、弟子たちに復活された御体を見せ、確認させてくださいました。
弟子たちは喜びましたが、その感情は依然として超現実的で、困惑したままであるように思われます。見て経験しても、まだ信仰には至っていないようです。疑ったのはトマスだけではありませんでした。イエス様を実際に見た人々も、復活を理解できませんでした。
23節には、「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」と記されています。このような権威と使命を授けられたにもかかわらず、それに対する反応は記録されていません。
イエス様はその言葉を述べられる前に、聖霊を受けるようにと言われました。イエス・キリストが遣わされる霊なしには、イエス様を見分けることも、イエス様がなされたことを理解することもできません。目の前にしても信じることができません。しかし、聖霊を受けるならば、分かるようになります。思い出されるようになり、記憶と御言葉と現実が結びついて、復活を悟るようになるでしょう。そして、その復活と自分自身の関係も理解できるようになるのです。