民数記 黙想 【心を明かしたいなら】 20250325(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
民数記 5:1~10 5:1 主はモーセにこう告げられた。 5:2 「イスラエルの子らに命じて、ツァラアトに冒された者、漏出を病む者、死体によって身を汚している者をすべて宿営の外に追い出せ。 5:3 男でも女でも追い出し、彼らを宿営の外に追い出し、わたしがそのただ中に住む宿営を、彼らが汚さないようにしなければならない。」 5:4 イスラエルの子らはそのようにして、彼らを宿営の外に追い出した。主がモーセに告げられたとおりにイスラエルの子らは行った。 5:5 主はモーセにこう告げられた。 5:6 「イスラエルの子らに告げよ。男にせよ、女にせよ、他人に何か一つでも罪となることを行って主の信頼を裏切り、後になって、その人自身がその責めを覚えたときは、 5:7 自分が行った罪を告白しなければならない。その人は償いとして総額を弁償し、それにその五分の一を加えて、償いの責めを果たすべき相手に支払わなければならない。 5:8 もしその相手の人に、償いを受け取る権利のある親類がいなければ、その咎のために弁償されたものは主のものであり、祭司のものとなる。そのほか、その人のために宥めを行うための、宥めの雄羊もそうなる。 5:9 こうして、イスラエルの子らが祭司のところに携えて来るすべての聖なるものは、どの奉納物も祭司のものとなる。 5:10 聖なるささげ物は、人のもとにあればその人のものであるが、人が祭司に与えるものは祭司のものとなる。」 第5章に入ると、ツァラアトに冒された者、漏出を病む者、死体によって身を汚している者は宿営の外に出され、共同体全体が汚れないように命じられています。これは内面的な衛生と保健に関する指示です。感染症にかかっていたり、衛生的に危険にさらされている人々を隔離することが求められています。しかし、これは追放や排除を目的とするものではなく、共同体全体の健康を守るための措置です。回復すれば、再び共同体に戻ることができます。共同体全体が汚染されてしまえば、少数の病者を救う手立ても失われてしまうからです。少数者は尊重されるべきですが、同時に少数者も多数者を尊重しなければなりません。 罪を犯して他人に被害を与えた人は、まず自分の罪を認め、反省し、謝罪しなければなりません。法律の抜け道を利用して理屈で争おうとすることは、法律の本来の趣旨を無視し、立法者である神様を欺こうとすることです。法律と罰があるのは、過ちに気づき、反省し、悔い改めるためです。被害を受けた人には、元金に加えて20%の損害賠償をしなければなりません。被害者に補償せずに「神様が許された」と言うのは、裁き主である神様を侮辱する行為です。究極的な目的は、罪人を処罰することではなく、市民の安全と財産を守るためなのです。 被害者が存在しない場合や相続人がいない場合、賠償金は祭司に渡されます。また、神様にささげるすべての聖なるもののうち、祭司が受け取るべき分は必ず祭司に与えられなければなりません。それは祭司の特権ではなく、収入の仕組みなのです。民には土地が分配され、労働と経済的な機会が与えられましたが、祭司たちには最初から資本が与えられていませんでした。彼らは民が神様にささげた聖物の中から一部を収入として得ました。経済的利益を追求するのではなく、宗教的奉仕に集中していたのです。祭司の収入の権利が強調されているのは、継続的で安定した礼拝を維持するために、宗教的かつ社会的基盤が必要だったからです。 律法は心を守るために与えられたものです。汚れた者は、自ら進んで共同体のために隔離されなければなりません。他者に害を与えないようにするためには、自分の権利を制限しなければなりません。そうしてこそ、共同体を大切に思う心が示されるのです。他人に被害を与えた場合には、口で謝罪するだけでなく、金銭的に賠償しなければなりません。それによって、心から謝罪しようとする真実さが証明されるのです。礼拝をささげるには、心を込めた供え物が伴わなければなりません。そうしてこそ、礼拝を慕う心を自ら確認することができるのです。 口先だけでは、心を証明することはできません。口だけの言葉では、真の心を示すことはできません。それは本当の「心」ではないのです。お金を惜しむ心が露わになるだけです。支払ってこそ、本当の心が証明されるのです。救いは決して「ただ」ではありません。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。ローマ5:8」イエス様が私の代わりに死んでくださったことで、私に対する愛を明らかにしてくださいました。イスラエルは、自分の権利を保留したり譲渡したりすることによって、自らの心を証明し、それを通して社会の安全、個人の命と財産、共同体の礼拝が守られたのです。