民数記 黙想 【バッタのようだと言った自己認識】 20250331(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
民数記 14:1~10 14:1 すると、全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。 14:2 イスラエルの子らはみな、モーセとアロンに不平を言った。全会衆は彼らに言った。「われわれはエジプトの地で死んでいたらよかった。あるいは、この荒野で死んでいたらよかったのだ。 14:3 なぜ主は、われわれをこの地に導いて来て、剣に倒れるようにされるのか。妻や子どもは、かすめ奪われてしまう。エジプトに帰るほうが、われわれにとって良くはないか。」 14:4 そして互いに言った。「さあ、われわれは、かしらを一人立ててエジプトに帰ろう。」 14:5 そこで、モーセとアロンは、イスラエルの会衆の集会全体の前でひれ伏した。 14:6 すると、その地を偵察して来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフンネの子カレブが、自分たちの衣を引き裂き、 14:7 イスラエルの全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて偵察した地は、すばらしく、良い地だった。 14:8 もし主が私たちを喜んでおられるなら、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さる。あの地は乳と蜜が流れる地だ。 14:9 ただ、主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちの餌食となる。彼らの守りは、すでに彼らから取り去られている。主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」 14:10 しかし全会衆は、二人を石で打ち殺そうと言い出した。すると、主の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエルの子らに現れた。 イスラエルの民は、カナンを偵察した者たちの報告を聞いて、一晩中泣き叫びました。しかし、『民数記』に記されているその報告は、それほど長くも詳しくもなく、むしろ抽象的で誇張されたものでした。負けると決めつけている者の報告には、負ける理由しかありません。敗北主義者の現実認識は、認知の歪みです。最初から「できない理由」ばかりを探します。臆病でありながら論理的であろうとする人は、自らの卑怯さを他人にもっともらしく説明しようとします。それはまさに「似た者同士が群れる」ようなものです。そのような報告を聞いた民は、偏った歪んだ情報をそのまま受け入れ、現実以上に誇張された恐怖を共有し合います。臆病で虚偽のニュースを生み出す者たち、それに騙されて仲間割れし争う者たちの姿は、現代の私たちの愚かな姿と何ら変わりません。 民はモーセとアロンを非難し、「エジプトで死んだほうがよかった」「この荒野で死ねばよかった」と言いました。これは明らかに嘘です。臆病者たちは、命さえ助かるなら、何でも受け入れるのです。食べ物さえ与えられれば奴隷でもよく、命さえ助かるなら浮浪者でも構わないのです。「カナンに入れば殺される」と言って現実に妥協し、危機を回避しようとするその言葉の裏には、本性があらわになっています。彼らは神を礼拝したのではなく、ただ自分たちの食物と安全を拝んでいたのです。一見すると共同体が危機に瀕しているように見えますが、実は神ご自身が共同体の中にいる偽物たちを明らかにしておられるのです。神様は、民を生かすためにカナンへと導こうとされていました。しかし民は「生きるために」カナンへ入ろうとせず、その結果、むしろそこで滅びることになるのです。 ヨシュアとカレブは衣を裂いて民に立ち向かいます。彼らがそうしたのは、自分たちの意見が異なることを示すためではありません。戦力を比較し「勝てる可能性がある」と主張したのでもありません。彼らが衣を裂いたのは、偵察者と民が神の約束を蔑ろにしたからです。神に勝ろうとする者が拠り所にするのは、いつも「現実」という名の盾です。その「現実」は、必ず自己保身の論理にすぎません。カナンに入ることは神様の御心であり、信仰と勇気は同義語です。この二人の信仰ある若者は、民に対し「神に逆らってはならない」と警告しました。現実を凌駕する信仰を見つけることは実に難しいことです。しかし神様は、勇気ある少数の信仰を用いられるのです。 神様はエジプトで奴隷であった民を、自立させるために荒野へと導き出されました。神様を信頼して生きる者は、社会においても自立して生きていきます。しかし、荒野の民は自立の代価を払おうともせず、挑戦しようともしませんでした。そのくせ、怒りを募らせたのです。ヨシュアとカレブは、自立への挑戦を恐れて「奴隷に戻ろう」と叫ぶ臆病者たちに、深い怒りを感じました。カナンの人々に比べて「自分たちはバッタのようだ」と語った彼らの自己認識は、実は的を射ていたのです。あの「神様に出会えるはずの荒野」にあっても、神様に出会うことなく迷い歩き、ついには消え去っていった哀れなバッタの群れ――それが彼らの真の姿でした。