民数記 黙想 【身分か、役割か】 20250424(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

民数記 16:1-11 16:1 レビの子であるケハテの子イツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、 16:2 モーセに立ち向かった。イスラエルの子らで、会衆の上に立つ族長たち、会合から召し出された名のある者たち二百五十人も、彼らと一緒であった。 16:3 彼らはモーセとアロンに逆らって結集し、二人に言った。「あなたがたは分を超えている。全会衆残らず聖なる者であって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは主の集会の上に立つのか。」 16:4 モーセはこれを聞いてひれ伏した。 16:5 それから、コラとそのすべての仲間とに告げた。「明日の朝、主は、だれがご自分に属する者か、だれが聖なる者かを示し、その人をご自分に近寄せられる。主は、ご自分が選ぶ者をご自分に近寄せられるのだ。 16:6 こうしなさい。コラとそのすべての仲間よ。あなたがたは火皿を取り、 16:7 明日、主の前でその中に火を入れ、その上に香を盛りなさい。主がお選びになるその人が、聖なる者である。レビの子たちよ、あなたがたが分を超えているのだ。」 16:8 モーセはコラに言った。「レビの子たちよ、よく聞きなさい。 16:9 あなたがたは、何か不足があるのか。イスラエルの神が、あなたがたをイスラエルの会衆から分けて、主の幕屋の奉仕をするように、また会衆の前に立って彼らに仕えるように、ご自分に近寄せてくださったのだ。 16:10 こうしてあなたを、そして、あなたの同族であるレビ族をみな、あなたと一緒に近寄せてくださったのだ。それなのに、あなたがたは祭司の職まで要求するのか。 16:11 事実、一つになって主に逆らっているのは、あなたとあなたの仲間全員だ。アロンが何だからといって、彼に対して不平を言うのか。」   レビ族のコラとルベン族のダタン、アビラム、オンがモーセに逆らって反乱を起こしました。この本文を読むにあたり、いわゆる霊的立場や宗教的立場について整理する必要があると感じます。一般的に、モーセが主のしもべであるように、牧師もまた主のしもべであり、レビ人が神殿で奉仕する区別された献身者であるように、牧師もレビ人に対応すると比喩的に解釈されることがあります。しかし、今日の本文では、そのレビ人がモーセに反旗を翻しました。そうすると、牧師はモーセにあたるのでしょうか、それともレビ人にあたるのでしょうか?これを明確にしなければ、論理的矛盾に陥り、霊的秩序も曖昧になります。   共同体のリーダーとしての役割において牧師をモーセに比することは可能です。しかし、身分の意味においてモーセと牧師を同一視することは、神学的に不可能です。モーセは制度化された宗教の指導者ではなく、神の救済計画を実現するために特別に召された救済史的リーダーでした。彼はイスラエルの民をエジプトから解放し、律法を授かり、イスラエル共同体の政治・外交・軍事・立法・司法・行政・宗教を総括する特別な役割を担いました。ヘブライ人への手紙3章では、モーセをイエス・キリストの型として説明しています。これはモーセがキリストと完全に同一であるという意味ではなく、キリストを指し示す不完全な影像としての役割を担ったことを意味します。現代のプロテスタント教会制度において、身分的にモーセに対応する宗教的ポジションは存在しません。   むしろ反乱を起こしたレビ族のコラこそ、今日の牧師や教会のリーダー像により近いと言えるでしょう。とはいえ、レビ人がすなわち牧師であると言っているわけではありません。レビ人の全体的な職務と、牧師の職務は同一ではありません。コラは幕屋奉仕という特別で聖なる使命を与えられていながら、より権威と影響力のある祭司の地位を求め、反乱を起こしました。みことばを教え、礼拝を導くべき牧会者が、自らの職分と役割以上を欲したときに生まれる傲慢の構造と、コラの反乱の構造は同じです。一部の人々は、信徒に対して牧師をモーセのような存在として逆らわないように説きますが、神は職分を奉仕のためではなく、身分や支配の道具として用いようとする傲慢と貪欲を厳しく警告されます。 牧師には教会の代表者としてみことばを教え、礼拝を導く権威があります。その権威は当然尊重されるべきです。しかし、その権威を強調するあまり一線を越えてはなりません。教皇が先日、逝去されました。プロテスタント信徒である私としては、教皇無謬説や使徒ペテロの後継者、地上におけるキリストの代理者という特別な霊的身分には同意も信仰もしていません。ただし、彼の弱者への愛と平和への奉仕の役割には深い敬意を表します。霊的身分や立場を論じることは、実は本質的ではありません。信じる者が信徒であり、身をささげる者が献身者であり、使命を実践する者が使命者であり、みことばを読み、解釈し、教える者が牧師です。誰であれ、謙虚にその役割に忠実であるとき、その人は主のしもべです。そして、どんな場合においても、教会のかしらはイエス・キリストご自身です。

民数記 黙想 【罪を悟らせる恵】 20250426(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生 (복제)

民数記 15:22-31 15:22 あなたがたが迷い出て、主がモーセに告げたこれらすべての命令、 15:23 すなわち、主が命じた日以後、代々にわたって、主がモーセを通してあなたがたに命じたすべてのことを行わないとき、 15:24 もしそのことが、会衆が気づかずになされたのなら、全会衆は、主への芳ばしい香りのための全焼のささげ物として若い雄牛一頭、また、定めにかなう穀物のささげ物と注ぎのささげ物、さらに罪のきよめのささげ物として雄やぎ一匹を献げなければならない。 15:25 祭司がイスラエルの全会衆のために宥めを行うなら、彼らは赦される。それは過失であり、彼らが自分たちの過失のために、自分たちのささげ物、すなわち主への食物のささげ物と罪のきよめのささげ物を、主の前に持って来たからである。 15:26 イスラエルの全会衆も、あなたがたの間に寄留している者も赦される。それは民全体の過ちだからである。 15:27 もし個人が気づかずに罪に陥ってしまったのなら、一歳の雌やぎ一匹を罪のきよめのささげ物として献げなければならない。 15:28 祭司は、気づかずに罪に陥ってしまった者のために、主の前で宥めを行う。彼のために宥めを行い、その人は赦される。 15:29 イスラエルの子らのうちのこの国に生まれた者でも、あなたがたの間に寄留している者でも、気づかずに罪を行ってしまった者には、あなたがたと同一のおしえが適用されなければならない。 15:30 この国に生まれた者でも、寄留者でも、故意に違反する者は主を冒瀆する者であり、その人は自分の民の間から断ち切られる。 15:31 主のことばを侮り、その命令を破ったのであるから、必ず断ち切られ、その咎を負う。」  モーセを通してイスラエルの民に与えられた神様の約束は、それまでの約束とは少し異なる点がありました。それは、「条件付きの約束」であったということです。私たちには無条件の約束の方がむしろ馴染みがないかもしれませんが、それまで神様はご自身の民に一方的な無条件の約束を与えてこられたため、モーセを通じて与えられたこの新たな約束は、当時の人々にとってはむしろ戸惑いを感じさせ、厳しく受け取られたかもしれません。    しかし、アダム以降の人間は、このような神様の条件付きの約束や命令を完全に守ることができませんでした。人の内には常に罪が存在していたからです。人々は自分でも気づかないうちに、神様の命令を破っていたことでしょう。    今日の箇所に書いてあるように、過って罪を犯した者がいた場合、祭司は神様のもとに贖罪のささげ物をささげなければなりませんでした。このような贖罪の儀式は、民の目の前で毎日行われていたことでしょう。    そのささげ物を見ながら、「今日も誰かが知らずに罪を犯してしまったのだな」と考えることもあったでしょうし、「もしかしてそれは自分だったのではないか」と不安に感じた人もいたかもしれません。むしろ、自分の罪に敏感な人ほど、この贖罪の儀式を通して自らの罪に気づかされることになったでしょう。    このように、敬虔な人ほど、その儀式を見守る心はより一層痛ましく、つらいものであったはずです。そして、それまで気づかずに犯していた罪や、わかっていながらも犯してしまう自分自身の姿に、深い絶望を感じたかもしれません。わかっていて犯す罪はすべて「故意」です。それは人の弱さなどで言い訳できない事実です。    しかし神様は、そのような者たちにこそ、より厳しい罰を約束されます。実際、どこまでが意図的な罪であるかを明確に見極めることはできません。また、どれだけ多くの人々がその罪によってイスラエルの民から断たれてしまったのかも、私たちには知る由がありません。しかし私たちは、過去に何があったかに焦点を当てるよりも、今、自分たちが知りうること、今の私たちに起きていることに目を向けるべきです。    私たちは、自らが罪人であることを認めながら、それでも罪を犯し続けています。知らずに犯してしまう罪もありますが、明らかに罪だと知りつつも犯してしまう罪も、数えきれないほど存在します。そのような私たちには、より厳しい刑罰が待っているのです。しかし、だからこそ、私たちはその中にあって、イエス・キリストの福音をいっそう喜ぶことができるのです。自分の惨めさを悟るその場所で、私たちはさらに大きな恵みを体験することができるでしょう。 https://youtu.be/1zLJXJXwkjo?si=NuDUhmVmcYgJ-3Ac

민수기 묵상 【신분인가 역할인가】 20250428(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

민수기 16:1~11 16:1 레위의 증손 고핫의 손자 이스할의 아들 고라와 르우벤 자손 엘리압의 아들 다단과 아비람과 벨렛의 아들 온이 당을 짓고 16:2 이스라엘 자손 총회에 택함을 받은 자 곧 회중에 유명한 어떤 족장 이백 오십 인과 함께 일어나서 모세를 거스리니라 16:3 그들이 모여서 모세와 아론을 거스려 그들에게 이르되 너희가 분수에 지나도다 회중이 다 각각 거룩하고…