民数記 QT エッセイ 【死んだ者たちと生きている者たちとの間に立つ】 20250430(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
民数記 16:36~50 16:36 主はモーセに告げられた。 16:37 「あなたは、祭司アロンの子エルアザルに命じて、炎の中から火皿を取り出し、火を遠くにまき散らさせよ。それらは聖なるものとなっているから。 16:38 いのちを失うことになったこれらの罪人たちの火皿は、打ちたたいて延べ板とし、祭壇のためのかぶせ物とせよ。それらは、主の前に献げられたので、聖なるものとなっているからである。これらはイスラエルの子らに対するしるしとなる。」 16:39 そこで祭司エルアザルは、焼き殺された者たちが献げた青銅の火皿を取り、それを打ち延ばして祭壇のためのかぶせ物とし、 16:40 そのことがイスラエルの子らに覚えられるようにした。これは、アロンの子孫以外の資格のない者が、主の前に進み出て香をたくことのないようにするため、その人が、コラやその仲間のような目にあわないようにするためである。主がモーセを通してエルアザルに言われたとおりである。 16:41 その翌日、イスラエルの全会衆は、モーセとアロンに向かって不平を言った。「あなたがたは主の民を殺した。」 16:42 会衆がモーセとアロンに逆らって結集したとき、二人が会見の天幕の方を振り向くと、見よ、雲がそれをおおい、主の栄光が現れた。 16:43 モーセとアロンは会見の天幕の前に来た。 16:44 主はモーセに告げられた。 16:45 「あなたがたはこの会衆から離れ去れ。わたしはこの者どもをたちどころに絶ち滅ぼす。」二人はひれ伏した。 16:46 モーセはアロンに言った。「火皿を取り、祭壇から火を取ってそれに入れ、その上に香を盛りなさい。そして急いで会衆のところへ持って行き、彼らのために宥めを行いなさい。主の前から激しい御怒りが出て来て、神からの罰がもう始まっている。」 16:47 モーセが命じたとおり、アロンが火皿を取って集会のただ中に走って行くと、見よ、神の罰はすでに民のうちに始まっていた。彼は香をたいて、民のために宥めを行った。 16:48 彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、主の罰は終わった。 16:49 コラの事件で死んだ者とは別に、この主の罰で死んだ者は、一万四千七百人であった。 16:50 アロンが会見の天幕の入り口にいるモーセのところへ戻ったときに、主の罰は終わっていた。 神はコラの反逆を裁かれましたが、民はなおもモーセとアロンを恨んでいました。彼らには、いったい何が起こっているのか、まだ理解できていなかったのです。民はコラの死の理由と意味を解釈しようとせず、モーセを責め、その論理に確信を持ち、敵意を燃やしました。世論と群衆心理に飲み込まれた人々はざわめき、囁き合いながら不満と陰謀を広めていきました。真実が何であるかも知らず、扇動され歪められた人々は、なおも憎しみと怒りに満ちていたのです。しかし生き残った者たちは、コラ一派の死の理由を思い巡らすべきだったでしょう。民数記16章の世界は、欺瞞と誤解、憎悪と怒声によって血に塗れた世界でした。 「リトリートセンター・伊東」で一夜を過ごしてきました。東京とは違う自然の中で、普段よりゆったりとした朝の時間を持ちました。同行者たちは口を揃えて、スローなテンポとぼんやりする時間の有益さを讃えました。リトリートセンターの庭では、竹の子が雨後の筍のように天を目指して伸びており、夕方には空から静かに雨が降ってきました。鉄格子の外を憧れる囚人のように、窓に張り付き、竹林が雨に濡れていく「雨ぼんやり」の時間を味わいました。混沌とした世のエンジンをひととき停止させる時間、それは魂のエンジンが回り出す時間なのです。ハイデガーは、「存在するものたち」によって「存在すること」を忘れてしまうと指摘しました。誰もが利益を見つければ目を凝らします。しかし、「火を見つめ」「雨を見つめる」時間には、焦点をぼかします。だからこそ、魂に焦点を合わせることができるのです。 スマートフォンからは、忘れた頃に刃と汚泥が飛び出してきます。一時的にでも電源を切る勇気がなければ、自分の魂のために時間を捧げる勇気など持てないでしょう。リトリートセンターの寝室の枕元では、一晩中、温泉水がチョロチョロと流れる音がしていました。穏やかで一定のリズムでした。私たちが開けておいた流し温泉のせいでしょう。村上春樹の小説『ノルウェイの森』で、主人公ワタナベが友人の死をきっかけに生と死を思い悩んだとき、聞こえていた小川のせせらぎのように——私が聞いたその水音にも、意味を付与したくなりました。流されるようにではなく、流れるように生きていける気がして、ほっとしたのです。朝には決まって鳥たちが窓辺でさえずっていましたが、あえて聞こえないふりをして、一日ぐらいは寝坊を楽しむ怠惰も特別な慰めとなりました。ゴロゴロしながら、そのありのままの自然の音で耳を清めるべきなのです。雨上がりの空を見上げながら、それでもこの世界は生きるに値し、神の御国は美しいと、改めて宣言しなければなりませんでした。 心に余裕を持てなかった民数記16章の人々、信念もなく翻弄され、責任も持たずに他人を責める世の中に、再び神の怒りが下りました。民は疫病によって次々に死んでいきました。死の思考が伝染するこの世界で、誰が公義によって裁かれる神を責めることができるでしょうか。人間は最後まで自分を省みることなく、悔い改めることもありませんでした。本質的に、人間は悔い改めにおいて無能なのです。彼らの運命はモーセの心にかかっていました。モーセとアロンは、民に憎まれた被害者でした。心の中はぐちゃぐちゃだったことでしょう。それゆえ、彼らを苦しめた者たちが疫病で倒れていくのを、腕組みして見下ろしたくなかったでしょうか。神に「もっと滅ぼしてください」と願いたくなかったでしょうか。しかし、モーセがモーセである理由がそこにあります。傷ついたモーセが急いでアロンに贖罪を指示すると、傷ついたアロンは、まるで007作戦のように急いで香炉を手に取り、自分を傷つけた民のために贖罪のいけにえを捧げたのです。 こうして、民は救われました。その災いを食い止めることができた唯一の方法は、代わりに謝罪し、赦しを乞う贖罪だけでした。神が民を赦される仕組みは、実に人間的でありすぎるほど人間的なものでした。神の憐れみと愛を反映する人間の愛と憐れみがなければ、代わりに責任を引き受ける執り成しの犠牲がなければ、贖罪は起こりませんでした。使徒信条で「かしこより来たりて、生ける者と死せる者とを審きたまわん」と告白するとき、その裁きを免れる唯一の道は、続く使徒信条の中にある贖罪の恵みの告白にあります。生ける者と死せる者の間に立って執り成すことのできた贖罪こそが、人を人たらしめ、社会を人が生きるに値する場所にしたのです。モーセとアロンも心身ともに疲弊していたでしょう。そんな彼らが贖罪に駆け出したのは、他人の痛みに共感したからでしょうか。それとも、神の御心に共感したからでしょうか。