民数記 黙想 【ノブレス・オブリージュ】 20250603(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
民数記 32:28~42 32:28 そこで、モーセは彼らについて、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、イスラエルの諸部族の一族のかしらたちに命令を下した。 32:29 モーセは彼らに言った。「もし、ガド族とルベン族の、戦いのために武装した者がみな、あなたがたとともにヨルダン川を渡り、主の前で戦い、その地があなたがたの前に征服されたなら、あなたがたはギルアデの地を所有地として彼らに与えなさい。 32:30 しかし、もし彼らが武装してあなたがたとともに渡って行かなければ、彼らはカナンの地であなたがたの間に所有地を得なければならない。」 32:31 ガド族とルベン族は答えた。「主があなたのしもべたちに語られたことを、私たちは実行いたします。 32:32 私たちは武装して主の前にカナンの地に渡って行き、私たちの相続の所有地を、このヨルダンの川向こうとします。」 32:33 そこでモーセは、ガド族と、ルベン族と、ヨセフの子マナセの半部族に、アモリ人の王シホンの王国とバシャンの王オグの王国、すなわち町々がある地と、周辺の地の町々がある領土を与えた。 32:34 そこでガド族は、ディボン、アタロテ、アロエル、 32:35 アテロテ・ショファン、ヤゼル、ヨグボハ、 32:36 ベテ・ニムラ、ベテ・ハランを城壁のある町々として、または羊の囲い場として建て直した。 32:37 また、ルベン族は、ヘシュボン、エルアレ、キルヤタイム、 32:38 および、後に名を改められたネボとバアル・メオン、またシブマを建て直した。彼らは、建て直した町々に新しい名をつけた。 32:39 マナセの子マキルの子らはギルアデに行って、そこを攻め取り、そこにいたアモリ人を追い出した。 32:40 モーセがギルアデをマナセの子マキルに与えたので、彼はそこに住んだ。 32:41 マナセの子ヤイルは行って、彼らの町々を攻め取り、それらをハボテ・ヤイルと名づけた。 32:42 ノバフは行って、ケナテとそれに属する村々を攻め取り、自分の名にちなんで、それをノバフと名づけた。 ヨルダン川を渡る前、ルベン族とガド族はギレアデの牧草地を見て、その地を自分たちの相続地として求めました。他の部族はまだ割り当て地が決まっておらず、カナン本土の征服もこれからという段階でした。しかしヨルダン川の東側の一部地域は、すでにモーセがアモリ人の王シホンとバシャンの王オグを打ち破って手に入れた土地でした。彼らの要求は、一歩間違えれば共同体の秩序を乱し、対立を招く可能性がありました。しかし彼らは条件を提示しました――すべての征服戦争が終わるまで、武装して先頭に立って戦うという約束でした。モーセはその約束を受け入れましたが、神様と共同体の前で責任をもって果たすことを明確に求めました。 本日の本文は、ガド族とルベン族がモーセと神様の前で交わした約束が、どのように公に確定されていくかを示しています。モーセは彼らの要求を条件付きで受け入れ、祭司エルアザルとヨシュア、そして各部族の族長たちに引き継ぎます。その結果、ガド族・ルベン族、そしてマナセの半部族が、ヨルダン川の東側にあるギレアデとバシャンの地を分与され、それぞれの名を付けて町々を建設しました。これは、共同体の前で約束を実践するという意志の表れだったと言えるでしょう。 現実的な願いは、時に利己的な欲望と見なされがちですが、それが共同体の中で責任と献身を伴うならば、信仰の中で正当な権利として認められることがあります。「現実的な必要」という意味において、欲望は誰の心にも存在します。正当な権利を求めること自体は人間として当然であり、信仰はそれを否定したり、罪として断じたりはしません。しかし、その権利を求めるには、それに見合う責任と献身が必要です。対立の兆しがあったからこそ、より明確な方法で信頼を守る必要があったのです。信仰とは、欲望を持たない状態ではなく、その欲望を誠実に取り扱う姿勢なのです。後に東側の征服で登場するアカンの出来事は、この点において強く対照的です。自分の権利や現実的な必要を主張するとき、それに伴う献身の重さを果たして自覚しているのか――そのことを私たちは自らに問い直さなければなりません。