詩篇 黙想 【存在しない悪者】 20250616(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
詩篇 75:1~10 75:1 私たちはあなたに感謝します。神よ私たちは感謝します。あなたの御名は近くにありあなたの奇しいみわざが語り告げられています。 75:2 「わたしが定めの時を決めわたし自ら公正にさばく。 75:3 地とそこに住むすべての者が揺らぐときわたしが地の柱を堅く立てる。セラ 75:4 わたしは誇る者には『誇るな』と言い悪者どもには『角を上げるな。 75:5 おまえたちの角を高く上げるな。横柄な態度で語るな』と言う。」 75:6 高く上げることは東からでもなく西からでもなく荒野からでもない。 75:7 まことに神こそさばき主。ある者を低くしある者を高く上げられる。 75:8 主の御手には杯があり混ぜ合わされた泡立つぶどう酒が満ちている。主がこれを注ぎ出されると実にすべて地の悪者どもはそれを飲みかすまで飲み干す。 75:9 しかし私はとこしえまでもみわざを告げます。ヤコブの神にほめ歌を歌います。 75:10 私は悪者どもの角をことごとく切り捨てます。正しい者の角は高く上げられます。 詩篇75篇は、神の義と主権を宣言し、神が定めた時に高ぶる者を砕き、正しい者を高くされると語っています。しかし、問題は、多くの読者がこの詩篇を読むとき、自分自身を当然のように「義人」の立場に置いてしまうことです。「誰が悪人なのか?」という問いがありません。この無意識の前提こそが、詩篇の言葉を私たち自身にとって生きた神の言葉にさせない原因なのです。 神の裁きは常に「彼ら」に向けられているかのように読まれ、読者はその裁きとは関係のない安全地帯にいるかのように振る舞います。まるで正義を語っているかのようで、実は怒りと裁きの感情が他者に向けられているだけなのです。「角を誇るな」「傲慢な首を振りかざすな」といった神の言葉さえも、自分が憎む誰かに当てはめてしまい、自分には適用しようとしません。そうやって私たちは、正直に詩篇を読んだことがあるでしょうか。 この詩篇は確かに鋭い武器になり得ますが、それは他人を刺す剣ではなく、自分自身を打ち砕く斧であるべきです。神の裁きは、外にいる誰かへのものではなく、神の前に立つ自分自身の高慢さと自己義に向けられたものなのです。初めから義人と悪人を明確に分ける二元論自体が、そもそも成り立たないのです。すべての人間は、絶対的な義人でも、絶対的な悪人でもありません。悪人は、鏡の中に生きています。 今日の黙想の題を「存在しない悪者」としたのは、悪人がこの世から消えたという意味ではなく、誰もが自分を義人と考えるために、悪人が“見えなくなっている”という霊的な矛盾を皮肉ったものです。詩篇を読むとき、他人を断罪し呪うための言葉ではなく、自らの心を正直に見つめ直す哀歌として読む必要があるのではないでしょうか。もし、自分の立場を転倒させることに少しでも成功したなら、もう一度詩篇75篇を読んでみてください。