詩篇 黙想 【握りしめるべき記憶】 20250623(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
詩篇 78:40~55 78:40 幾たび彼らは荒野で神に逆らい荒れ地で神を悲しませたことか。 78:41 彼らは繰り返し神を試みイスラエルの聖なる方の心を痛めた。 78:42 彼らは神の力も神が敵から贖い出してくださった日も思い起こさなかった。 78:43 神がエジプトでしるしをツォアンの野で奇跡を行われたことを。 78:44 神が大河を血に変えられたのでその流れは飲めなくなった。 78:45 神は彼らにあぶの群れを送り蛙を送って彼らを食い尽くされた。 78:46 また彼らの作物を若いいなごに彼らの勤労の実をいなごに与えられた。 78:47 神は雹で彼らのぶどうの木を稲妻でいちじく桑の木を滅ぼされた。 78:48 彼らの家畜を雹に家畜の群れを疫病に渡された。 78:49 神は彼らの上に燃える怒りを送られた。激しい怒りと憤りと苦しみを。わざわいをもたらす御使いたちを。 78:50 神は御怒りに道を備え彼ら自身に死を免れさせず彼らのいのちを疫病に渡された。 78:51 神はエジプトですべての長子を打ち殺された。ハムの天幕で彼らの力の初穂を。 78:52 神はご自分の民を羊の群れのように連れ出し家畜の群れのように荒野の中を連れて行かれた。 78:53 神が安らかに導かれたので彼らは恐れなかった。しかし彼らの敵は海がおおい隠した。 78:54 こうして神は彼らをご自分の聖なる国に右の御手で造ったこの山に連れて来られた。 78:55 また彼らの前から異邦の民を追い出しその地を相続の地として彼らに分け与えイスラエル諸族をそれぞれの天幕に住まわせた。 イスラエルの失敗は、記憶の失敗でした。彼らは神の恵みを忘れ、命を救ってくださった救いの出来事を思い出さなかったのです。イスラエルは、より良いもの、より多くのものを求めて偶像を拝みました。恵みに対する応答は感謝と信仰ではなく、不平と不満でした。その結果は痛みでした。神はシロの幕屋を離れられ、民はさまよい、祭司たちは剣に倒れ、礼拝は破壊されました。神がその形式的な礼拝をもはや受け取られないという宣言です。神の恵みに対する人間の応答は明らかに不従順であり、その不従順に対する神の応答もまた明確でした。 しかし、この詩篇の論点は単なる人間の失敗の告発にとどまりません。その核心は、人間の失敗に対する責任が、人間自身の力では決して解決できないということにあります。人は自ら神との契約を守れない存在であり、信仰を語り、従順を唱えても、その欲望と背反はどの歴史の中でも救いにふさわしい応答とはなり得なかったのです。これは人間の姿を明確に示し、救いの信仰とは、人を叱咤して作り出されるのではなく、神が先に何かを始められる必要があるという逆説を語っているのです。 詩人はこの悔い改めの詩の結びにダビデについて語ります。数え切れない失敗を重ねた人々の中で、もう一人の人間が登場するとはどういう意味でしょうか。ダビデもまた、失敗した一人の人間でした。しかし、詩篇が語るのは人間ダビデの偉大さではありません。この絶望の中で神が選ばれた新たな秩序、すなわち恵みの方式を語っているのです。だからこそ神はこの働きのためにダビデを選ばれたのです。 詩篇78篇の結論は、人間ダビデそのものではなく、彼を通して働こうとされた神の方式にあります。ダビデはキリストを予告する存在です。詩人が語ろうとしているのは、堕落や反省ではなく、キリスト教信仰の核心である贖いなのです。神は人間の失敗を越えて、ご自身の民を回復される恵みの新しい秩序を宣言されます。それこそが、人間が実現し得る唯一の救いの信仰なのです。祭儀でも敬虔でもなく、自己批判でも自己検閲でもありません。イエスに対する記憶によって生きるときのみ、信仰は守られるのです。