詩篇 黙想 【シオンの住所】 20250701(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
詩篇 87:1~7 87:1 主の礎は聖なる山にある。 87:2 主はシオンの門を愛される。ヤコブのどの住まいよりも。 87:3 神の都よあなたについて誉れあることが語られている。セラ 87:4 「わたしはラハブとバビロンをわたしを知る者として記憶しよう。見よペリシテとツロクシュもともに。『この者はこの都で生まれた』と。」 87:5 しかしシオンについてはこう言われている。「この者もあの者もこの都で生まれた。いと高き方ご自身がシオンを堅く建てられる」と。 87:6 主が「この者はこの都で生まれた」と記して国々の民を登録される。セラ 87:7 歌う者も踊る者も「私の泉はみなあなたにあります」と言う。 シオンとは、ある民族の中心地を意味するものではありません。聖書が語るシオンとは、神の救いが始まり、諸国に広がっていく霊的な中心を指しています。ラハブ、バビロン、ペリシテ、ツロ、クシュが登場しますが、ここでのラハブはエジプトを意味しています。つまり、これらはすべて異邦人です。ところが詩人は、彼らが「シオンで生まれた」と言っているのです。これはすなわち、シオンが民族的な概念ではないことを意味します。誰もがシオンの市民になれるという、普遍的な救いの観点です。シオンとは、神の選びと救いの普遍性が調和する共同体精神でなければなりません。 神がイスラエルを選ばれたのは、彼らだけを救うためではありません。イスラエルは祝福の通路であり、救いの出発点として召されたのです。そして神は、彼らを通して諸国の民が祝福を受ける計画を立てられました。神の選びは、人間に与えられた特権ではなく、責任と使命を伴う特別な召しと遣わしなのです。 旧約聖書を福音の視点から読まなければ、聖書全体の流れが断たれ、新約や教会のアイデンティティも混乱してしまいます。民族主義的に、あるいは文字通りにのみ解釈すると、律法主義やユダヤ主義へと逸れていく矛盾を生むことになります。逆に、旧約を無視して新約だけを読むと、福音は歴史や人間理解という根拠を失い、表面的なものに流れてしまいがちです。 イエス・キリストにおいて、シオンはもはや地理的なエルサレムではありません。「シオンで生まれた」という言葉は、キリストにあって新しく生まれたことを意味しています。シオンの歴史性を否定するわけではありません。シオンは確かに福音の土台でしたが、その意味はキリストにあって拡張され、普遍化されたのです。ゴスペルソングなどでよく使われる「エルサレム」という表現が、現代国家イスラエルの首都や民族主義的終末論の象徴として誤解されないよう注意しなければなりません。 教会がイスラエルを廃して代わりになったというのではありません。キリストの福音の中で、ユダヤ人も異邦人も共に一つの体をなす新しい共同体が築かれたのです。教会は霊的なイスラエルであり、教会こそが成就されたシオンの姿なのです。シオンの住所は、今ここ、キリストの中にあり、私たちが属する教会こそが、隣人を救いに導く現場であるべきなのです。