Ⅰテモテ 黙想 【持続可能なエペソ宣教のために】 20250715 (火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
Ⅰテモテ 5:17~25 5:17 よく指導している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのために労苦している長老は特にそうです。 5:18 聖書に「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない」、また「働く者が報酬を受けるのは当然である」と言われているからです。 5:19 長老に対する訴えは、二人か三人の証人がいなければ、受理してはいけません。 5:20 罪を犯している者をすべての人の前で責めなさい。そうすれば、ほかの人たちも恐れを抱くでしょう。 5:21 私は、神とキリスト・イエスと選ばれた御使いたちの前で、あなたに厳かに命じます。これらのことを先入観なしに守り、何事もえこひいきせずに行いなさい。 5:22 だれにも性急に按手をしてはいけません。また、ほかの人の罪に加担してはいけません。自分を清く保ちなさい。 5:23 これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のために、少量のぶどう酒を用いなさい。 5:24 ある人たちの罪は、さばきを受ける前から明らかですが、ほかの人たちの罪は後で明らかになります。 5:25 同じように、良い行いも明らかですが、そうでない場合でも、隠れたままでいることはありません。 パウロは教会の指導者に対する尊重と責任、そして共同体内の秩序と聖さについて語っています。ここでの「長老」とは、長老派教会の長老ではなく、今日で言えば牧師に近い教職者を指します。御言葉と教えのために労する指導者は、より多くの信頼と敬意を受けるべきであり、その責任に応じた正当な報酬を受けるべきだと述べています。牧師も一人の社会人として、責任と職務に対する公正な待遇を受けなければなりません。今日の教会は、過度な報酬を受ける一部の牧師と、生計すら困難な多くの牧師の間でそのバランスを失い、資本主義的な構造に変質しています。高い所にはへりくだりが必要であり、低い所には満たしが必要です。 教会財政の透明性と共同体としての責任は、神学的倫理の核心です。小規模な教会ほど、牧師にすべての財政運営を任せたり、重荷を負わせたりする場合が多いですが、これは牧師の誠実さと献身のみに依存する危険な構造です。教会は規模にかかわらず、財政の透明性と共同責任体制を確立し、牧師に過度な権限や負担をかけるのではなく、正当な経済的報酬を提供すべきです。指導者の権威を尊重し支援しつつも、抑制の仕組みを通して聖さを守らなければなりません。 そのためにパウロは、指導者選びにおいて慎重さを強調します。「軽々しく按手してはならない」というのは、教会の人事に慎重になれという意味です。外見的な基準ではなく、職務と信仰に基づいた識別が求められます。現代で言えば、牧師の見た目や出身校、学位などでは判断できないということです。牧師を立てる権威は教会にあります。牧師は教会に対して責任を持って献身し、教会は牧師に対して責任感を持たなければなりません。誰を立てたかということは、その共同体のレベルを示す印です。時が経てば、すべては明らかになるでしょう。牧師には管理や運営の能力よりも、本質的には御言葉の力が重要であり、信徒は主体的に管理や運営に参加すべきです。 パウロはテモテの健康にも細かく配慮します。形式的な敬虔さにとらわれず、少量のぶどう酒を薬用として使うように勧めます。健康を維持できなければ、何もできなくなるからです。指導者の健康は共同体の健康に直結しています。献身の象徴とも言えるパウロでしたが、後輩のテモテには、霊的な指導者にも身体的・心理的ケアが必要であることを語っています。しかし厳密には、パウロがテモテに語るテモテの権利と責任は、テモテ個人のためではなく、「持続可能な宣教のため」のものです。教会と牧会者は、持続可能な宣教と礼拝のために、知的にも霊的にも、そして身体的にも管理され、成長していかなければなりません。