Ⅰテモテ 黙想 【革命より強く】 20250716 (水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

Ⅰテモテ 6:1~10 6:1 奴隷としてくびきの下にある人はみな、自分の主人をあらゆる面で尊敬に値する人と思わなければなりません。神の御名と教えが悪く言われないようにするためです。 6:2 信者である主人を持つ人は、主人が兄弟だからといって軽んじることなく、むしろ、ますますよく仕えなさい。その良い行いから益を受けるのは信者であり、愛されている人なのですから。あなたはこれらのことを教え、また勧めなさい。 6:3 違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと、敬虔にかなう教えに同意しない者がいるなら、 6:4 その人は高慢になっていて、何一つ理解しておらず、議論やことばの争いをする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、ののしり、邪推、絶え間ない言い争いが生じます。 6:5 これらは、知性が腐って真理を失い、敬虔を利得の手段と考える者たちの間に生じるのです。 6:6 しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。 6:7 私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。 6:8 衣食があれば、それで満足すべきです。 6:9 金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。 6:10 金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。   1世紀のエペソは、文化と商業の中心地である一方で、人間が物のように売買される奴隷市場が存在する街でもありました。人口の半分が奴隷であったとも伝えられています。そんな都市でパウロは、「奴隷も主人もキリストにあってひとつである」という急進的な宣言と共に教会を始めました。エペソの経済や宗教は、階層的に明確で差別化された、いわば「高級ブランド」のようなものでした。しかし、教会は奴隷と主人、ユダヤ人とギリシア人が共に礼拝するという、ぎこちなく不快感さえ伴う共同体として始まりました。 パウロは奴隷制度を正面から批判することも、革命を扇動することもしていません。それは人権意識がなかったからではありません。彼はまず、主人と奴隷が互いを兄弟と呼び、共にパンを裂き合い、仕え合う神の家族としての共同体を築こうとしたのです。人と人との間に存在する優劣という幻想を教会の中で打ち壊さなければ、次のステップへ進むことはできないと信じていたからでしょう。だからこそ彼は、奴隷たちに被害者意識に閉じこもることなく、まず主人を敬うように教えたのです。 今日の本文は、すべての立場にある共同体の構成員への言葉です。しかし、少なくとも本文の中には「主人に奴隷を仕えなさい」という命令は登場しません。だからといって主人は仕えなくてよい、という意味ではありません。他の書簡では、それも教えています。パウロは単に、愛の出発点をより低いところに設定しただけなのです。主人が奴隷に施す親切よりも、奴隷が主人に仕えるその心には、よりはっきりとした真実性が宿っているからではないでしょうか。何千年も後に奴隷制度の廃止のために闘った人々は、きっとパウロと、彼が残した書簡の中に、その志の根拠を見出したことでしょう。 世界における差別は、今もなお教会の敷居に引っかかっています。学歴、経済力、職業、性別、年齢、国籍、身体的条件……それらは人々を分ける線となります。政治的・制度的な取り組みは、差別を「禁止する」ところまではできます。しかし、それだけです。法や制度が人に愛を教えることはできません。それが律法の限界でもありました。福音は、政治的革命よりもさらに深い変革を求めます。制度よりも早く働く、隣人への関心、兄弟への思いやり、互いに受け入れるもてなし――それこそが福音の方法です。パウロは、悔しく、つらく、差別される立場にある奴隷たちに向かって、その主人を愛しなさいと語りました。

디모데전서 묵상 【혁명보다 강하게】 20250716(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

디모데전서 6:1~10 6:1 무릇 멍에 아래 있는 종들은 자기 상전들을 범사에 마땅히 공경할 자로 알지니 이는 하나님의 이름과 교훈으로 훼방을 받지 않게 하려 함이라 6:2 믿는 상전이 있는 자들은 그 상전을 형제라고 경히 여기지 말고 더 잘 섬기게 하라 이는 유익을 받는 자들이 믿는 자요 사랑을 받는 자임이니라 너는 이것들을 가르치고 권하라 6:3 누구든지 다른…