エゼキエル 黙想 【エルサレムの責任感】 20250724 (木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
エゼキエル 5:1~17 5:1 人の子よ、あなたは鋭い剣を取れ。それを床屋のかみそりのように使って、あなたの髪とひげを剃れ。それから秤を使って量り、その毛を分けよ。 5:2 その三分の一を、包囲の期間の終わるときに町の中で焼き、またもう三分の一を取って町の周りで剣で打ち、残りの三分の一を風に乗せて散らせ。わたしは剣を抜いてその後を追う。 5:3 あなたはそこからわずかな毛を取って、あなたの衣の裾に包み、 5:4 その中からさらにいくらかを取って、火の中に投げ入れ、火で燃やせ。火がそこから出て、イスラエルの全家に燃え移る。」 5:5 神である主はこう言われる。「これがエルサレムだ。わたしはこれを諸国の民のただ中に置き、その周りを国々が取り囲むようにした。 5:6 エルサレムは悪事を働き、諸国の民以上にわたしの定めに、周囲の国々以上にわたしの掟に逆らった。実に、エルサレムはわたしの定めを嫌い、わたしの掟に従って歩まなかった。 5:7 それゆえ──神である主はこう言われる──あなたがたは周りの国々よりも粗暴な者たちで、わたしの掟に従って歩まず、わたしの定めを行わず、それどころか、あなたがたの周りの国々の定めさえ行わなかった。 5:8 それゆえ──神である主はこう言われる──今、わたしはあなたを敵とし、国々の目の前で、あなたのただ中でさばきを下す。 5:9 あなたのしたすべての忌み嫌うべきことのゆえに、これまでしたこともなく、これからもしないようなことを、あなたに対して行う。 5:10 それで、あなたのうちの父は自分の子どもを食べ、子どもは自分の父を食べるようになる。わたしは、あなたにさばきを下し、あなたのうちの残りの者をみな四方に散らす。 5:11 それゆえ──神である主のことば──わたしは生きている。あなたが、あらゆる忌まわしいものと、あらゆる忌み嫌うべきことによって、わたしの聖所を汚したので、わたしもまた身を引き、あわれみをかけない。わたしもまた、惜しまない。 5:12 あなたの三分の一は疫病で死ぬか、あなたのただ中で飢饉によって滅び、三分の一はあなたの周りで剣に倒れ、残りの三分の一を、わたしは四方に散らし、剣を抜いて彼らの後を追う。 5:13 わたしの怒りが出し尽くされると、わたしは彼らに対する憤りを収めて満足する。わたしが彼らに対する憤りを終わらせたとき、彼らは、主であるわたしが、ねたみをもって語ったことを知る。 5:14 わたしは、あなたの周りの国々の中で、通り過ぎるすべての者の目の前で、あなたを廃墟とし、そしりの的とする。 5:15 わたしが、怒り、憤り、また憤りによる懲罰をもってあなたにさばきを下すとき、あなたは周りの国々のそしりとののしりの的、教訓と恐怖となる。主であるわたしがこれを告げる。 5:16 わたしが飢饉という悪しき矢を、滅びのため彼らに放ち、あなたがたを滅ぼそうとして放つとき、わたしは飢饉をあなたがたの上にいっそう増して、あなたがたのパンの蓄えをなくす。 5:17 わたしはあなたがたに飢饉と悪い獣を送る。それらはあなたに子を失わせる。疫病と流血があなたのうちに起こる。わたしはあなたの上に剣をもたらす。主であるわたしがこれを告げる。」 エルサレムは神が世の基準として立てられた神の都でしたが、エゼキエルの時代の人々はその基準を崩し、中心を打ち砕いてしまいました。宗教的にも文化的にも神殿といけにえは存在していましたが、その中に神への畏れや聖さへの渇望はありませんでした。恵みに鈍感で、その恵みを与えた神を無視する時、人間はその恵みという材料を使って、悪以上の悪を選んでしまうことさえあります。 エルサレムの堕落は、倫理的な失敗ではなく、契約を裏切った集団的な反逆でした。選民として与えられた特権を盾にして、神の名を汚した秩序の転覆でした。「恵み」という言葉をどう定義すべきでしょうか。恵みは、必要な時に使う割引クーポンのようなものではありません。責任を引き受ける姿勢であり、神のものを守ろうとする献身であるべきです。恵みが本物であるならば、その恵みを受けた人の人生も本物でなければなりません。 エゼキエルは自分の髪とひげを剃り、火で焼き、剣で斬り、風に散らしました。それはエルサレムが直面する飢饉と疫病、バビロンの剣、滅亡と捕囚を象徴しています。神の裁きは、汚された聖を清めようとする神の熱意であり、汚された神の御名を再び回復しようとする道のりです。神への信仰の責任を果たすことは、すなわち自分自身に対する責任を果たすことであると、彼らは苦しみの中で気づくことになるでしょう。