エゼキエル 10:1~8
10:1 私が見ていると、ケルビムの頭上の大空に、サファイアのような、王座に似たものがあり、それがケルビムの上に現れた。
10:2 主は亜麻布の衣をまとった者に命じられた。「ケルビムの下にある車輪の間に入り、ケルビムの間の炭火をあなたの両手に満たし、それを都の上にまき散らせ。」この人は私の目の前でそこに入って行った。
10:3 その人が入って行ったとき、ケルビムは神殿の南側に立っていて、雲がその内庭を満たしていた。
10:4 主の栄光がケルビムの上から上り、神殿の敷居に向かった。神殿は雲で満たされ、また、庭は主の栄光の輝きで満たされた。
10:5 そのとき、ケルビムの翼の音が外庭にまで聞こえた。それは、全能の神が語られるときの声のようであった。
10:6 主が亜麻布の衣をまとった者に「車輪の間、ケルビムの間から火を取れ」と命じられると、この人は入って行き、輪のそばに立った。
10:7 すると、ケルビムのひとりがケルビムの間から、ケルビムの間にある火の方に手を伸ばして、その火を取り、亜麻布の衣をまとった者の両手にそれを盛った。この人はそれを受け取ると、出て行った。
10:8 ケルビムの翼の下には人間の手の形があった
神の栄光が去り始めたとき、エゼキエルが見た聖所の幻は厳粛だった。神は亜麻布(あまぬの)を身にまとった者に命じ、ケルブの下にある炭火を取って、エルサレムの町の上に撒き散らすようにされた。神が人間の堕落した宗教の場を離れるという象徴は、炭火を町に投げ与えることで表された。その炭火は裁きの火であると同時に、清めと回復をもたらす密やかな火でもあった。
木は特別な素材である。炭は、木が完全に燃え尽きた姿だ。木は燃え尽きても、炭という新たな存在として再び始まる。中途半端に燃えた薪は煙だけを上げ、再び火を灯すのは難しいが、炭は静かな熱意を内に秘め、再び火を宿す。激しくはないが、決して冷めることなく、深く、穏やかに燃え続ける。
炭にはそれ自体に清めの使命がある。浄水器のフィルターは炭の原理を利用している。水に入れれば水が清められ、空気中に置けば空気が浄化され、土に入れれば土壌が良くなる。炭は周囲のものを清める。神は人を炭のように造り、用いられることもある。荒野の火はモーセを40年間燃やし尽くし、彼が完全に燃え尽きて炭のようになったとき、神は彼を再び呼び出された。失敗と挫折を経験していたペテロのために、復活のイエスは炭火で魚を焼いて待っておられた。
ケルブの下にある炭火を持ち出す者は、亜麻布を身にまとっていた。粗布(あらぬの)は粗く織られた布だが、亜麻布は時間と手間をかけて、亜麻を精製し、緻密に織り上げて得られるものだ。それは麻布よりも繊細で、さらに清らかな衣、すなわちリネン、セイマホ(細麻布)である。それはイエスの遺体を包んだ布であり、『ヨハネの黙示録』に登場する小羊の花嫁が身にまとう義の衣でもある。
芯を持つ木は炭になる。炭になった人は、自らを焼いた火を静かに内に抱く。だから、その人のそばにいると、心が落ち着き、温かさに包まれる。一片の炭をのぞき込めば、その中には広大な銀河が瞬いている。偽りと貪欲は火によって焼かれ、炭は残された世界を清めていくだろう。亜麻布をまとい、炭火のように長く燃え続け、再び火を宿した人。そんな人がいるところに、神の栄光は再び戻ってくるのだ。