エゼキエル 黙想 【任意の数】 20250807 (木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
エゼキエル 14:1~11 14:1 イスラエルの長老たちの何人かが来て、私の前に座った。 14:2 そのとき、私に次のような主のことばがあった。 14:3 「人の子よ。これらの者たちは自分たちの偶像を心の中に秘め、自分たちを不義に引き込むものを、顔の前に置いている。わたしは、どうして彼らに応じられるだろうか。 14:4 それゆえ、彼らに告げて、こう言え。『神である主はこう言われる。心の中に偶像を秘めて、不義に引き込むものを自分の顔の前に置きながら、預言者のところに来るすべてのイスラエルの家の者には、その偶像の多さに応じて、主であるわたしが答える。 14:5 こうして、偶像のゆえにみなわたしから離されてしまったイスラエルの家の心を、わたしがとらえる。』 14:6 それゆえ、イスラエルの家に言え。『神である主はこう言われる。立ち返れ。あなたがたのすべての偶像から身を翻せ。すべての忌み嫌うべきものをあなたがたの前から遠ざけよ。 14:7 イスラエルの家の者でも、イスラエルに寄留している者でも、だれでもわたしから離れ、心の中に偶像を秘めて、自分を不義に引き込むものを顔の前に置きながら、わたしに尋ねようと預言者のところに来る者には、主であるわたし自身が答える。 14:8 わたしはそのような者に敵対してわたしの顔を向け、彼をしるしとし、語りぐさとして、わたしの民の間から絶ち滅ぼす。そのときあなたがたは、わたしが主であることを知る。 14:9 もし預言者が惑わされてことばを語るなら、主であるわたしがその預言者を惑わしたのである。わたしはその者に手を伸ばして、わたしの民イスラエルのうちから根絶やしにする。 14:10 このような者たちは自分の咎を負う。その預言者の咎と、尋ね求めた者の咎は同じである。 14:11 こうしてイスラエルの家は、もうわたしから迷い出ることはなく、重ねて自分たちの背きによって自分自身を汚すことはなくなる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる──神である主のことば。』」 神を信じる者だけが、自分自身を見ることができる。なぜなら、創造主である神は、被造物である人間存在の鏡であり、基準であるからだ。心に神を持たない者は、自分の内面を歪め、自分自身を欺く。自分を欺き、また、自分に欺かれる。ただ神の御前に立つことができるとき、人はようやく自分の実体を見ることができる。 数学では「任意の数」を設定し、それをてこにして問題を解き、隠されていた答えを見つけ出す。神を信じない人も、ときに神の存在を任意の数として仮定することができる。パスカルは「神が存在すると仮定して生きるほうが、存在しないと仮定するよりもはるかに合理的である」と語った。信仰がなくても信仰を前提にするとき、人生の解釈は真理を発見する道を開くという意味である。 イスラエルの長老たちは神の御心を求めて預言者のもとを訪ねたが、彼らの内には逆に偶像という前提があった。 神をてことして仮定するなら、不信仰の中でも神に出会えることがある。しかし、偶像をすでに固定された値として持っている者は、神を見聞きしても何も信じようとしない。偶像は宗教的信念となり、敬虔の自負となって、神を拒む堅固な要塞になっている。 神が戦っておられるのは、石や木で作られた工芸品ではない。神は、自らの欲望によって作られたオブジェに欺かれた人間の内面と戦っておられるのである。神は御手で偶像を打ち砕かれるのではなく、私たちの思いと心を取り、それと戦われる。偶像と戦うべきなのは、私たち自身である。自らの内にある偶像と戦い、それを打ち砕いてこそ、自分自身と出会うことができ、そして、ついには神と出会うことができるのだ。