エゼキエル 黙想 【無責任が負う責任】 20250812 (火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エゼキエル 16:35~52 16:35 それゆえ、遊女よ、主のことばを聞け。 16:36 神である主はこう言われる。あなたは愛人たちや忌み嫌うべき偶像と姦淫をして、自分の恥ずかしいところを見せ、自分の裸をあらわにし、それらに自分の子を献げて血を流したのだ。 16:37 それゆえ、見よ。わたしは今、あなたが戯れたすべての愛人たちや、あなたが恋した者や、憎んだ者をすべて寄せ集め、彼らを四方から集めて、あなたの裸を彼らにさらけ出す。彼らは丸裸のあなたを見る。 16:38 わたしは、姦通した女と殺人を犯した女に下す罰によってあなたをさばき、ねたみと憤りをもってあなたの血に報いる。 16:39 わたしはあなたを彼らの手に委ねる。彼らはあなたの祭儀台を壊し、高台を打ち壊し、あなたの着ている物をはぎ取り、あなたの美しい品々を奪い取り、あなたを丸裸にしておく。 16:40 彼らは集団をあおってあなたを襲わせ、石であなたを打ち殺し、剣であなたを八つ裂きにする。 16:41 そのうえ、あなたの家々を火で焼き、多くの女たちの目の前であなたにさばきを下す。こうして、わたしはあなたの淫行をやめさせる。あなたはもう報酬を支払わなくなる。 16:42 わたしはあなたに対する憤りを収めるので、わたしのねたみはあなたから離れる。わたしは安んじて、二度と怒ることはない。 16:43 あなたが、自分の若かった日々を思い出さず、かえって、これらすべてのことでわたしを怒らせたので、見よ、わたしもまた、あなたの頭上にあなたの行いを返す──神である主のことば──。あなたはすべての忌み嫌うべきわざに、淫らな行いを加えなかったか。 16:44 見よ。ことわざを用いる者は、あなたについてこういうことわざを用いる。「あの母にして、この娘あり」と。 16:45 あなたは、自分の夫と子どもを嫌った母の娘。自分たちの夫や子どもを嫌った姉妹があなたの姉妹。あなたがたの母はヒッタイト人、あなたがたの父はアモリ人であった。 16:46 あなたの姉は、その娘たちと一緒にあなたの北に住んでいるサマリアであり、あなたの妹は、その娘たちと一緒にあなたの南に住んでいるソドムである。 16:47 あなたは彼女たちの道に歩み、彼女たちのした忌み嫌うべきわざをまねなかっただろうか。ほんのわずかの間に、あなたはすべての道において彼女たちよりも堕落してしまった。 16:48 わたしは生きている──神である主のことば──。あなたの妹ソドムとその娘たちさえ、あなたと、あなたの娘たちがしたほどのことを決してしなかった。 16:49 だが、あなたの妹ソドムの咎はこのようだった。彼女とその娘たちは高慢で、飽食で、安逸を貪り、乏しい人や貧しい人に援助をしなかった。 16:50 彼女たちは高ぶって、わたしの前で忌み嫌うべきことをしたので、わたしはこれを見たとき、彼女たちを取り除いた。 16:51 サマリアも、あなたの罪の半分ほども罪深くはなかった。あなたが彼女たち以上に多くの忌み嫌うべきことをしたので、あなたのしたすべての忌み嫌うべきことが、あなたの姉妹たちを正しいとした。 16:52 あなたも、あなたの姉妹たちをかばった恥辱を負え。あなたが彼女たちよりも忌み嫌うべきことをして、罪が重かったため、彼女たちはあなたよりも正しいとされた。あなたも恥じて、あなたの姉妹たちを正しいとした恥辱を負え。   エルサレムは神の愛と恵みの頂点にあったが、その栄光は長く続かなかった。それは神が気まぐれだったからではなく、エルサレム自身が招いた結果である。恵みは神から受けながら、あらゆる真心と情熱は偶像に注ぎ込んだ。偶像とは単なる宗教的なオブジェではない。今、心と情熱を注いでいるその対象こそが偶像である。神は、堕落の象徴であったソドムやサマリアよりも、エルサレムがさらに悪く堕落した状態にあると評価された。 クリスチャンが世よりも悪くなり得るのは、神の啓示と恵みが生活の中に内面化されず、かえって宗教的特権意識だけが強調され、信仰が自己の不条理を正当化する道具へと変質してしまうからである。それは自己反省を遮断し、仮想の敵を作り、その敵を非難することで「自分はよく信じている」という自己欺瞞の構造を生み出す。信仰とは内面の価値によって証明されるものであり、誰かを憎むことで証明できるものではない。 その結果、対話は断絶し、互換性を失い、孤立が深まる。神の絶対性、イエス・キリストによる救いの唯一性と、宗教的独断や閉鎖性とは別のものである。批判されるべき行動ゆえに非難されながら、それを「義のために苦難を受けている」という自己憐憫に置き換えることは証しではない。外面的な敬虔さや祭儀がますます大きく華やかになることは、むしろ内面の腐敗を裏付けている。良心と理性は次第に麻痺し、いつの間にか世よりも破廉恥で非倫理的な集団へと転落するという逆説が生じる。 その無責任さに対して責任を取らなければならない。神は堕落したエルサレムに向かって裁きを宣告される。人間の視点からすれば、それは滅亡のように見えるが、実際は刷新のための神の最後の手段である。苦しむ人間は「なぜ」と訴えるが、神が語られるときには耳を傾けず、身体が苦しくなると「なぜ」と声を荒らげる。しかし停止は破壊ではなく、方向を再設定するための過程である。持続的な疾走は慣性によって可能だが、止まるときには大きなエネルギーが必要であり、停止後に再び加速するにはさらに大きなエネルギーが必要である。だからこそ、残っている力があるなら、無意味な慣性の疾走を止めるために用いるべきである。走り続ければ続けるほど感覚は鈍くなり、熱心さよりも停止の中でこそ道が見えてくるかもしれない。

에스겔 묵상 【무책임이 져야 할 책임】 20250812(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에스겔 16:35~52 16:35 그러므로 너 음부야 여호와의 말을 들을지어다 16:36 나 주 여호와가 말하노라 네가 네 누추한 것을 쏟으며 네 정든 자와 행음함으로 벗은 몸을 드러내며 또 가증한 우상을 위하여 네 자녀의 피를 그 우상에게 드렸은즉 16:37 내가 저의 즐거워하는 정든 자와 사랑하던 모든 자와 미워하던 모든 자를 모으되 사방에서 모아 너를 대적하게 할 것이요…