エゼキエル 黙想 【罠にかかった若獅子、折られたぶどうの枝】 20250818 (月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
エゼキエル 19:1~14 19:1 「あなたはイスラエルの君主たちのためにこの哀歌を唱えよ。 19:2 あなたの母は何であったのか。雌獅子だ。彼女は雄獅子の間に伏し、若い獅子の間で子獅子を養った。 19:3 雌獅子は子獅子のうちの一頭を取り上げた。それは若い獅子となり、獲物をかみ裂くことを習い、人を食い滅ぼすようになった。 19:4 諸国の民はその獅子のうわさを聞いた。その獅子は落とし穴で捕らえられた。彼らはこれに鉤をつけ、エジプトの地へ引いて行った。 19:5 雌獅子は待ちくたびれて、自分の望みが消え失せたことを知ったとき、子獅子のうちのほかの一頭を取り、若い獅子と定めた。 19:6 これも雄獅子の間を歩き回り、若い獅子となって、獲物をかみ裂くことを習い、人を食い滅ぼすようになった。 19:7 この獅子は、やもめたちを犯し、町々を廃墟とした。その吼える声のために、地とそこに満ちているものは、おののいた。 19:8 そこで、諸国の民は周りの州から攻め上り、その獅子に彼らの網を打ちかけた。その獅子は彼らの落とし穴で捕らえられた。 19:9 彼らはそれに鉤をかけて檻に入れ、バビロンの王のもとに引いて行った。彼らはそれを砦に閉じ込め、二度とその声がイスラエルの山々に聞こえないようにした。 19:10 あなたの母は、水のほとりに植えられた、あなたのぶどう園のぶどうの木のようだった。水が豊かなために実りが良く、枝も茂った。 19:11 その強い枝は王の杖となり、その背丈は茂みの中でひときわ高く、多くの小枝をつけて、際立って見えた。 19:12 しかし、激しい憤りをもってそれは引き抜かれ、地に投げ捨てられ、東風はその実を枯らした。その強い枝も折られて枯れ、火がそれを焼き尽くした。 19:13 今や、それは荒野に、乾いた、潤いのない地に移し植えられ、 19:14 火がその枝から出て、その若枝と実を焼き尽くした。もう、それには王の杖となる強い枝がなくなった。」これは悲しみの歌、哀歌となった。 エゼキエル書19章は、イスラエルの指導者たちのための哀歌である。雌獅子が子獅子を育てて王のようにしたが、その権威を守り切れず、罠にかかって捕らえられ、捕囚として引きずられて行った。もう一匹の子を立てたが、彼もまた町々を荒らし、ついにはバビロンに捕らえられて行った。ぶどうの木は、かつて水のほとりに植えられ、力強く豊かであったが、今はその繁栄も権威も失われてしまった。雌獅子とぶどうの木はユダの全盛期を象徴する。しかし後の世代はその栄光を守り切ることができなかった。 このアイロニーはユダの歴史だけではない。ある世代は汗を流して種を蒔くが、栄光を受けることはできない。別の世代は先の世代の献身の上に繁栄と権利を受けながらも、それを放蕩に消費し、自ら滅びていく。人類の歴史の中で、この逆説は繰り返されてきた。 種を蒔く者と刈り取る者が違っても、不満に思う理由はない。神は種を蒔く者の誠実を知っておられ、刈り取る者の労苦をも知っておられる。そして、与えられた恵みを浪費した世代の無責任と怠惰も決して神の御前に隠れることはできない。神はすべての労苦と犠牲を覚えておられ、同時に無責任さと怠慢もご存じである。世が与える報酬に一喜一憂しないなら、私たちはより価値ある道を選ぶことができる。 では、どの道を選ぶのか。夜明けを切り開く世代となるのか、それとも夜の闇に消え、瓦礫の中に立ち尽くす世代となるのか。私たちが今享受しているものは、自分の努力や実力によるものではなく、時代の恵みを受けているにすぎない。その時代を築いた人々は献身したが、すべての恵みを享受することはできなかった。時代が後退していると思いながら、実はなお残されたものを享受していると考えると、自分はまるで罠にかかった若獅子のようであり、枯れゆくぶどうの木のようであり、恐ろしくなる。