ローマ人への手紙 黙想 【キリスト・イエスのしもべ】 20250901 (月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
ローマ人への手紙 1:1~7 1:1 キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロから。 1:2 ──この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、 1:3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、 1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。 1:5 この方によって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。御名のために、すべての異邦人の中に信仰の従順をもたらすためです。 1:6 その異邦人たちの中にあって、あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました── 1:7 ローマにいるすべての、神に愛され、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。 パウロはローマ書を始めるにあたり、自らを「イエス・キリストの僕」と紹介している。ここで私は二つのことを考えた。 第一に、使徒という権威ある職分の前に、まず「僕」というアイデンティティを語った点である。奴隷制度が存在した時代に「僕」が何を意味するのか、改めて説明する必要はないだろう。むしろ、現代において「僕」という言葉が歪められて用いられていることを確認しなければならない。「神の僕」「主の僕」という呼称は、本来なら最も低い身分を意味するが、実際には特権を持つ地位のように受け取られている。僕として生きようとするのではなく、特権階級として扱われたい者たちの口に「主の僕」という名が付けられているのだ。ゆえに「主の僕」という言葉が響くところには、むしろ「人の主人」というこだまが聞こえてくる。 第二に、パウロが自らを「神の僕」ではなく「イエス・キリストの僕」と言った点である。しかしそれは区別ではなく、同一の意味である。キリストの僕とならずに神の僕となることはできない。神へと至るすべての道はイエスを通している。何事であってもその道を通らなければ神に到達することはできない。イエスという名を持つ人格の前で彼を愛すると告白できない者が「神を愛する」と言うのは、宗教的で抽象的な虚飾にすぎない。愛はイエスの御名の前で告白され、膝はイエスの御名の前でかがめられなければならない。もし誰かが自らを「神の偉大な僕」と称するなら、その人は事実上イエス・キリストに敵対する者である。福音の働きは権力や自己誇示から始まるのではなく、イエス・キリストに従う僕の立場から始まる。