エゼキエル 黙想 【血を流すエルサレム】 20250825 (月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エゼキエル 22:1~16 22:1 次のような主のことばが私にあった。 22:2 「人の子よ、あなたはさばくのか。この流血の都をさばくのか。それなら、この都にその忌み嫌うべきわざを残らず告げ知らせて、 22:3 このように言え。『神である主はこう言われる。自らのただ中で血を流して自分の刑罰の時を招き、自らのために偶像を造って自分を汚す都よ。 22:4 おまえは自分が流した血で咎を負う者となり、自分が造った偶像で身を汚し、自分の日を近づかせ、自分の年を来させた。だから、わたしはおまえを国々のそしりの的とし、すべての国の笑いぐさとする。 22:5 おまえの近くにいる者も遠くにいる者も、名を汚されて大いに混乱したおまえをあざ笑う。 22:6 見よ。イスラエルの君主たちは、おまえの中でそれぞれ力をふるい、人の血を流している。 22:7 おまえの中で父や母は軽んじられ、おまえのただ中で寄留者は抑圧され、おまえの中にいるみなしごややもめは虐げられている。 22:8 おまえはわたしの聖なるものを蔑み、わたしの安息日を汚した。 22:9 おまえの中には、血を流そうと他人を中傷する者がいて、ある者は丘の上で食事をし、おまえのただ中で淫らなことをした。 22:10 おまえの中では父の裸があらわにされ、おまえの中では月のさわりのある女が犯された。 22:11 ある者は隣人の妻と忌み嫌うべきことをし、またある者は淫らなことをして嫁を汚し、ある者はおまえの中で、自分の父の娘である自分の姉妹を辱めた。 22:12 おまえの中では、血を流すために賄賂が使われ、おまえは利息と高利を取り、隣人を抑圧して利得を貪った。おまえはわたしを忘れた──神である主のことば。 22:13 見よ。おまえが得た不正な利得と、おまえの中で流された血のために、わたしは手を打ち鳴らす。 22:14 わたしがおまえをさばく日に、おまえの心は耐えられるだろうか。おまえの手は強くあり得るだろうか。主であるわたしが語り、事を行う。 22:15 わたしはおまえを諸国の間に散らし、国々に追い散らし、おまえの汚れをすっかり取り除く。 22:16 国々の民が見ている前で、おまえはおまえ自身によって汚される。そのときおまえは、わたしが主であることを知る。』」   本文は、エルサレムの罪に対する告発と、それに伴う神の裁きを語っている。明らかにされた罪の姿は、無実の者を殺す暴力、権力を用いた民への圧迫、隣人の財産を奪い搾取する盗み、賄賂の授受や高利貸しによって不義の利益を追い求める悪行であった。また、両親を侮り、異国人を虐げ、孤児ややもめを害し、性的な淫らさによって家庭倫理と人倫を破壊していた。神はそのようなエルサレムを「血を流す町」と呼ばれた。 現代のニュースを耳にして生きる私には、エルサレムの堕落の姿は決して見慣れないものではない。神を捨てた人間は、結局欲望を追い求めるしかない。キリスト教が街頭で声を上げるとすれば、それはキリスト教という宗教の政治的・社会的利益のためではなく、権力の暴圧に犠牲となる人々、家族や財産を失い苦しむ人々、不公正な社会の中で不利益を被る人々、居場所を持たない移住労働者たち、そして社会的・経済的弱者の権利のためであるべきだ。 信仰の外見だけが残った宗教が欲望に囚われると、すべては堕落の道具となる。学問も、権力や地位も、資本も、結局は悪のための手段に成り下がる。エルサレムの罪は共同体全体に深く浸透し、指導者も祭司も民も皆その堕落に関わっており、その先頭に宗教が立っていた。 神は必ず裁きを行うと宣言された。その結果、エルサレムは辱めと嘲笑を受け、諸国の間に散らされるであろう。その過程において、彼らは神が誰であるかを悟るようになる。神は人格的なお方であるがゆえに、自動的に人間性を高めるようにはされない。悔い改めない人間の人間性を回復する唯一の方法は、滅ぼすことである。裁きを通して高慢を打ち砕き、滅ぼすことによって、再び自分自身が何者であるか、そして神が誰であるかを知るようにされるのだ。滅びることなく生きる唯一の道が何であるかを人々は知っているはずだが、欲に駆られ、日々の忙しさに追われる者たちは、決してその道を見出すことはできないであろう。

에스겔 묵상 【피 흘리는 예루살렘】 20250825(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에스겔 22:1~16 22:1 여호와의 말씀이 또 내게 임하여 가라사대 22:2 인자야 네가 국문하려느냐 이 피 흘린 성읍을 국문하려느냐 그리하거든 자기의 모든 가증한 일을 그들로 알게 하라 22:3 너는 이르기를 주 여호와의 말씀에 자기 가운데 피를 흘려 벌 받을 때로 이르게 하며 우상을 만들어 스스로 더럽히는 성아 22:4 네가 흘린 피로 인하여 죄가 있고 네가 만든…

エゼキエル 黙想 【私を支えてくださる神の恵み】 20250821 (木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エゼキエル 20:27~32 20:27 それゆえ、人の子よ、イスラエルの家にこう告げよ。『神である主はこう言われる。あなたがたの先祖は次のことにおいても、わたしの信頼を裏切ることにより、わたしを冒瀆している。 20:28 わたしが、彼らに与えると誓った地に彼らを連れて行くと、彼らは高い丘や茂った木を見て、どこででもいけにえを献げた。彼らはそこで主の怒りを引き起こすささげ物を献げ、そこで芳ばしい香りを供え、そこで注ぎのぶどう酒を注いだ。 20:29 それで、わたしは彼らに言った。「あなたがたが通う高き所とは何なのか」と。今日でもその名はバマと呼ばれている。』 20:30 それゆえ、イスラエルの家に言え。『神である主はこう言われる。あなたがたは父たちの生き方をまねて自分自身を汚し、彼らの忌まわしいものを慕って姦淫を犯そうとするのか。 20:31 しかも、ささげ物を供え、幼子に火の中を通らせて、今日まであらゆる偶像で身を汚してきた。イスラエルの家よ。わたしはどうして、あなたがたの求めに応じられるだろうか。わたしは生きている──神である主のことば──。わたしは決してあなたがたの求めに応じない。 20:32 あなたがたが、「私たちは、木や石を拝んでいる異邦の民、国々の諸族のようになろう」と言っている、その霊の思いは決して実現しない。   イスラエルの歴史は、絶え間ない背教の歴史である。先祖たちが偶像に従ったように、その子孫たちも再び高き所や木の下で祭りをささげ、自ら異邦人のように生きようとした。それは彼らにとって、より魅力的に見えたのだろう。だから今もなお神から離れていく人は多く、それはアダム以降の人間の本性である。人は心に神を置くことを嫌い、この世を追い求める。 人間の歴史はその繰り返しにすぎないが、注目すべきは人間ではなく、その歴史の中で契約を守り続ける神である。神はイスラエルが異邦人のようになりたいと望む時でさえ、「あなたがたはそのようにはならない」と言われた。人間の堕落と裏切りの慣性にもかかわらず、神の契約の引力はそれ以上に強かった。ご自分の民を決して捨てないという神の契約的誠実さが、不従順な人間の歴史を荷車に載せて引き導いておられるのだ。 信仰とは、もしかすると「つかむこと」ではなく、「つかまれていること」なのかもしれない。おそらくそうであろう。私は何度も手を離してしまうが、神はその手を決して離されない。神に選ばれた者は最後まで守られ、誰もそこから奪い去ることはできない。「あなたがたは異邦人のようにはなれない」という言葉は、すなわち「あなたはわたしのものだ」という宣言である。これこそが聖徒の堅忍である。ここで信仰のない人々は「予定か、それとも意志か」という終わりのない議論を繰り返すが、その間に信仰の人々は神の愛を発見するのだ。

에스겔 묵상 【나를 붙드시는 하나님의 은혜】 20250821(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에스겔 20:27~32 20:27 그런즉 인자야 이스라엘 족속에게 고하여 이르기를 주 여호와의 말씀에 너희 열조가 또 내게 범죄하여 나를 욕되게 하였느니라 20:28 내가 그들에게 주기로 맹세한 땅으로 그들을 인도하여 들였더니 그들이 모든 높은 산과 모든 무성한 나무를 보고 거기서 제사를 드리고 격노케 하는 제물을 올리며 거기서 또 분향하고 전제를 부어 드린지라 20:29 이에 내가 그들에게 이르기를…

エゼキエル 黙想 【何に対する従順なのか】 20250820 (水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エゼキエル 20:10~26 20:10 こうしてわたしは、エジプトの地から彼らを導き出し、荒野に導き入れ、 20:11 わたしの掟を彼らに与え、わたしの定めを告げ知らせた。人は、それらを行うなら、それらによって生きるからである。 20:12 わたしはまた、彼らにわたしの安息日を与えて、わたしと彼らとの間のしるしとし、わたしが彼らを聖なる者とする主であることを、彼らが知るようにした。 20:13 しかし、イスラエルの家は荒野でわたしに逆らった。彼らはわたしの掟に従って歩まず、わたしの定めを忌み嫌った。人は、それらを行うなら、それらによって生きるのに。さらに、彼らはわたしの安息日を甚だしく汚した。そこでわたしは、荒野でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ、彼らを絶ち滅ぼそうと考えた。 20:14 しかし、わたしはわたしの名のことを思い、彼らを導き出すのを見ていた国々の目の前で、わたしの名が汚されないようにした。 20:15 だがわたしは、わたしが与えた、乳と蜜の流れる地、どの地よりも麗しい地に、彼らを導き入れない、と荒野で彼らに誓った。 20:16 それは、彼らがわたしの定めを忌み嫌い、わたしの掟に歩まず、わたしの安息日を汚したからだ。それほど彼らの心は偶像を慕っていた。 20:17 それでも、わたしは彼らをあわれんで滅ぼさず、荒野で彼らを滅ぼし尽くさなかった。 20:18 わたしは荒野で彼らの子どもたちに言った。「あなたがたの父たちの掟に従って歩むな。彼らの慣わしを守るな。彼らの偶像で身を汚すな。 20:19 わたしがあなたがたの神、主である。わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行え。 20:20 また、わたしの安息日を聖なるものとせよ。これをわたしとあなたがたとの間のしるしとし、わたしがあなたがたの神、主であることを知れ」と。 20:21 しかし、子どもたちはわたしに逆らった。彼らはわたしの掟に従って歩まず、わたしの定めを忌み嫌った。人は、それらを行うなら、それらによって生きるのに。さらに、彼らはわたしの安息日を汚した。そこで、わたしは、荒野でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ、彼らにわたしの怒りを出し尽くそうと思った。 20:22 しかし、わたしは手を引いた。わたしの名のことを思い、彼らを導き出すのを見ていた国々の目の前で、わたしの名が汚されないようにした。 20:23 だがわたしは、彼らを諸国の間に散らし、国々に追い散らす、と荒野で彼らに誓った。 20:24 彼らがわたしの定めを行わず、わたしの掟を忌み嫌い、わたしの安息日を汚し、彼らの心が父たちの偶像を慕ったからである。 20:25 わたしもまた、良くない掟と、それによっては生きられない定めを彼らに与えた。 20:26 彼らがすべての初子に火の中を通らせたとき、わたしはそのささげ物で彼らを汚した。それは、わたしが彼らを滅ぼすため、わたしが主であることを彼らが知るためである。』   この本文から読み取るべきことは何だろうか。彼らは不従順であったが、私は従順して滅びないようにしなければならない――そうした教訓的なメッセージだけで十分なのだろうか。本当は、この本文は彼らの不従順をただ咎めているのではなく、イスラエルの歴史、いや人間の本性そのものに内在する「繰り返される不従順と裏切りの構造」を告発しているのではないだろうか。 彼らは荒野においてさえも不従順で反逆した。救いの途上にあってさえ、不従順を止めなかったのである。時が良くても悪くても、絶えず神を裏切り続けた。私たちがそれを読む理由は、数千年前に生きていた人々の行いを非難するためではない。むしろ、神と人間をより正確に理解するためなのである。 「従順しなければならない」という自責や勧告ではなく、私たちが本質的に従順できない存在であることを根本的に自覚しなければならない。イスラエルの不従順は、ある時代に限定された問題ではなく、人間存在全体が抱えている罪の性質の問題なのである。パウロがローマ書で告白したように、「善を行いたいという意思はあっても、実際には不従順へと傾かざるを得ない」というのが人間の現実である。 私たちが信じるのはイスラエルの歴史でも律法でもない。私たちが信じるのはただ福音である。ユダヤ教の亜流ではなく、福音のレンズを通して旧約を読むことこそ当然の姿勢である。したがって、福音の人が追い求める従順とは、イエス・キリストに対するものでなければならない。従順は自己の決意や意志ではなく、キリストの従順に連なる生活の中でのみ可能だからである。 このように、エゼキエル20章は人間の無能と不従順を明らかにすると同時に、神の恵みと憐れみを語っている。神はご自身の名と契約のゆえにイスラエルを最後まで捨てなかったように、その一貫した救済のためにキリストにおいて新しい道を開かれたのである。従順とは私の達成ではなく、救済の恵みに献身することによって生きる生活である。信仰において何よりも重要なのは、イエス・キリストに対する明確な告白である。

에스겔 묵상 【무엇에 대해 순종할 것인가】 20250820(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에스겔 20:10~26 20:10 그러므로 내가 그들로 애굽 땅에서 나와서 광야에 이르게 하고 20:11 사람이 준행하면 그로 인하여 삶을 얻을 내 율례를 주며 내 규례를 알게 하였고 20:12 또 나는 그들을 거룩하게 하는 여호와인줄 알게 하려하여 내가 내 안식일을 주어 그들과 나 사이에 표징을 삼았었노라 20:13 그러나 이스라엘 족속이 광야에서 내게 패역하여 사람이 준행하면 그로 인하여…

エゼキエル 黙想 【わたしの名のために】 20250819 (火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エゼキエル 20:1~9 20:1 第七年の第五の月の十日、イスラエルの長老たちの何人かが、主に尋ねるために来て、私の前に座った。 20:2 そのとき、私に次のような主のことばがあった。 20:3 「人の子よ、イスラエルの長老たちにこう告げよ。『神である主はこう言われる。あなたがたが来たのは、わたしに尋ねるためなのか。わたしは生きている。わたしは決してあなたがたの求めに応じない──神である主のことば。』 20:4 あなたは彼らをさばくのか。人の子よ、あなたはさばくのか。彼らの先祖たちの、忌み嫌うべきわざを彼らに告げ知らせよ。 20:5 彼らに言え。『神である主はこう言われる。わたしがイスラエルを選んだとき、わたしはヤコブの家の子孫に誓い、エジプトの地でわたしを彼らに知らせた。彼らに誓って、わたしがあなたがたの神、主であると言った。 20:6 その日、わたしは彼らをエジプトの地から導き出して、わたしが彼らのために探しておいた乳と蜜の流れる地、どの地よりも麗しい地に入れることを彼らに誓った。 20:7 わたしは彼らに言った。「それぞれ、その目の慕う忌まわしいものを投げ捨てよ。エジプトの偶像で身を汚すな。わたしがあなたがたの神、主である」と。 20:8 しかし、彼らはわたしに逆らい、わたしに聞き従おうとはしなかった。それぞれ、その目の慕う忌まわしいものを投げ捨てず、エジプトの偶像を捨てなかった。そこでわたしは、エジプトの地のただ中でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ、彼らにわたしの怒りを出し尽くそうと思った。 20:9 しかし、わたしはわたしの名のことを思い、彼らが住んでいる国々の目の前でわたしの名が汚されないようにした。国々の目の前で彼らをエジプトの地から導き出す、と知らせていたからだ。   イスラエルの長老たちが【主】のもとに来て尋ねようとしたとき、神は彼らの問いを退けられた。驚くべきことは神の拒絶そのものではなく、心が伴わないのに神を求める人間の姿である。彼らは、神を求める形式さえあれば、それが内容であるかのように自分を欺いていた。 それにもかかわらず、神は彼らを完全に捨てられなかった。神は最後まで見放されなかった。怒りによって滅ぼそうとされたその瞬間にも、神はあわれみを示された。そして「わたしの名のために、わたしはあなたがたを救った」と仰せられた。神の救いの根拠は、民の義ではなく、神ご自身の名、すなわち神のご性質と約束にあるのである。 詩篇23篇にも「主はわたしの羊飼い。私は乏しいことがありません……主は御名のために、わたしを義の道に導かれます」と記されている。では、神はわたしを愛するのではなく、ご自分の名のためだけに救っておられるのだろうか。 そうではない。もし神がご自分の名のために行動されないとすれば、ご自身を否定することになってしまう。神がその御名を守られるということは、神の契約とご性質、真実を最後まで支えられるという意味である。言い換えれば、神がご自分の名のためにわたしたちを導き、救ってくださるというのは、神ご自身を偽ることのない必然的な愛の行為なのである。

에스겔 묵상 【내 이름을 위함이라】 20250819(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에스겔 20:1~9 20:1 제 칠년 오월 십일에 이스라엘 장로 두어 사람이 여호와께 물으려고 와서 내 앞에 앉으니 20:2 여호와의 말씀이 내게 임하여 가라사대 20:3 인자야 이스라엘 장로들에게 고하여 이르기를 주 여호와의 말씀에 너희가 내게 물으려고 왔느냐 나 주 여호와가 말하노라 내가 나의 삶을 두고 맹세하노니 너희가 내게 묻기를 내가 용납지 아니하리라 하셨다 하라 20:4 인자야…

エゼキエル 黙想 【罠にかかった若獅子、折られたぶどうの枝】 20250818 (月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エゼキエル 19:1~14 19:1 「あなたはイスラエルの君主たちのためにこの哀歌を唱えよ。 19:2 あなたの母は何であったのか。雌獅子だ。彼女は雄獅子の間に伏し、若い獅子の間で子獅子を養った。 19:3 雌獅子は子獅子のうちの一頭を取り上げた。それは若い獅子となり、獲物をかみ裂くことを習い、人を食い滅ぼすようになった。 19:4 諸国の民はその獅子のうわさを聞いた。その獅子は落とし穴で捕らえられた。彼らはこれに鉤をつけ、エジプトの地へ引いて行った。 19:5 雌獅子は待ちくたびれて、自分の望みが消え失せたことを知ったとき、子獅子のうちのほかの一頭を取り、若い獅子と定めた。 19:6 これも雄獅子の間を歩き回り、若い獅子となって、獲物をかみ裂くことを習い、人を食い滅ぼすようになった。 19:7 この獅子は、やもめたちを犯し、町々を廃墟とした。その吼える声のために、地とそこに満ちているものは、おののいた。 19:8 そこで、諸国の民は周りの州から攻め上り、その獅子に彼らの網を打ちかけた。その獅子は彼らの落とし穴で捕らえられた。 19:9 彼らはそれに鉤をかけて檻に入れ、バビロンの王のもとに引いて行った。彼らはそれを砦に閉じ込め、二度とその声がイスラエルの山々に聞こえないようにした。 19:10 あなたの母は、水のほとりに植えられた、あなたのぶどう園のぶどうの木のようだった。水が豊かなために実りが良く、枝も茂った。 19:11 その強い枝は王の杖となり、その背丈は茂みの中でひときわ高く、多くの小枝をつけて、際立って見えた。 19:12 しかし、激しい憤りをもってそれは引き抜かれ、地に投げ捨てられ、東風はその実を枯らした。その強い枝も折られて枯れ、火がそれを焼き尽くした。 19:13 今や、それは荒野に、乾いた、潤いのない地に移し植えられ、 19:14 火がその枝から出て、その若枝と実を焼き尽くした。もう、それには王の杖となる強い枝がなくなった。」これは悲しみの歌、哀歌となった。   エゼキエル書19章は、イスラエルの指導者たちのための哀歌である。雌獅子が子獅子を育てて王のようにしたが、その権威を守り切れず、罠にかかって捕らえられ、捕囚として引きずられて行った。もう一匹の子を立てたが、彼もまた町々を荒らし、ついにはバビロンに捕らえられて行った。ぶどうの木は、かつて水のほとりに植えられ、力強く豊かであったが、今はその繁栄も権威も失われてしまった。雌獅子とぶどうの木はユダの全盛期を象徴する。しかし後の世代はその栄光を守り切ることができなかった。 このアイロニーはユダの歴史だけではない。ある世代は汗を流して種を蒔くが、栄光を受けることはできない。別の世代は先の世代の献身の上に繁栄と権利を受けながらも、それを放蕩に消費し、自ら滅びていく。人類の歴史の中で、この逆説は繰り返されてきた。 種を蒔く者と刈り取る者が違っても、不満に思う理由はない。神は種を蒔く者の誠実を知っておられ、刈り取る者の労苦をも知っておられる。そして、与えられた恵みを浪費した世代の無責任と怠惰も決して神の御前に隠れることはできない。神はすべての労苦と犠牲を覚えておられ、同時に無責任さと怠慢もご存じである。世が与える報酬に一喜一憂しないなら、私たちはより価値ある道を選ぶことができる。 では、どの道を選ぶのか。夜明けを切り開く世代となるのか、それとも夜の闇に消え、瓦礫の中に立ち尽くす世代となるのか。私たちが今享受しているものは、自分の努力や実力によるものではなく、時代の恵みを受けているにすぎない。その時代を築いた人々は献身したが、すべての恵みを享受することはできなかった。時代が後退していると思いながら、実はなお残されたものを享受していると考えると、自分はまるで罠にかかった若獅子のようであり、枯れゆくぶどうの木のようであり、恐ろしくなる。

에스겔 묵상 【함정에 걸린 사자 새끼, 꺾인 포도나무 가지】 20250818(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에스겔 19:1~14 19:1 너는 이스라엘 방백들을 위하여 애가를 지어 19:2 부르기를 네 어미는 무엇이냐 암사자라 그가 사자들 가운데 엎드리어 젊은 사자 중에서 그 새끼를 기르는데 19:3 그 새끼 하나를 키우매 젊은 사자가 되어 식물 움키기를 배워 사람을 삼키매 19:4 이방이 듣고 함정으로 그를 잡아 갈고리로 꿰어끌고 애굽 땅으로 간지라 19:5 암사자가 기다리다가 소망이 끊어진 줄을…