ローマ人への手紙 黙想 【聖なる生きたささげ物】 20250930 (火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ローマ人への手紙 12:1~8 12:1 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。 12:2 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。 12:3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。 12:4 一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、 12:5 大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。 12:6 私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、 12:7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、 12:8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。   本日の本文は「ですから」という言葉で始まる。パウロは11章までに、人間の罪、神の義、そして恵みによって与えられる救いについて述べてきた。そして12章に入り、その福音の真理を基盤として、信徒の生活における応答を求めている。したがって12章の冒頭の「ですから」は、大きな文脈の中で重要な転換点を示している。「ですから」以降の内容は、「それでは、これからどのように生きるべきか」という問いに答えるものとなっている。 「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい」という言葉は、礼拝が単なる儀式的な集会を超えた意味を持つことを示している。私たちのからだ、すなわち人生全体が神にささげられるとき、礼拝が成立するということである。したがって問題は、どれほど多くの礼拝に出席したかではなく、神の前に立つ礼拝の意識がその人の生活様式にどの程度根付いているかという点である。 さらにパウロは「この世と調子を合わせてはいけません」と述べている。ここで言う「世」とは、ローマの既成世代のことではなく、神を拒み、自らの欲望と偶像に縛られている人類全般の生き方を指している。そこから抜け出す必要がある。「心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい」という言葉は、福音によって再構成された思考を持つことを意味し、それによって生活の様式を変えて生きることを示している。それに関心を持たず、自信を持てない人々は、宗教に固執するあまり、かえって歪んだ存在になってしまう。 パウロの手紙は、集団的な儀式宗教を批判し、個人的な抽象的宗教に対しても根本的な変化を求めている。「生きたまま祭壇にささげよ」「時代の惰性に従うな」「自分の考えを打ち砕け」と述べる。それは非常に強い表現であり、革命的な言葉である。そのため、口で覚えることはできても、実際の生活に適用することは難しく、なじみの薄い言葉として響くかもしれない。しかし、この瞬間にも、確かに誰かは世に倣わずに生き、確かに誰かは自分の人生を神にささげている。 かつて共に働いた伝道師が、若くして召された。神学校を卒業してすぐに、福島原子力発電所の隣にある二つの教会に赴任した。ひとりの人間として、鞄ひとつを持ってその地に赴き、私は東京に戻った。その日の福島の灰色の空が悲しげに見えたことを覚えている。この世であれば誰も行こうとしない場所に赴き、生きたまま供え物のようにささげられた。信仰があるからといって、悲しみを避けることはできない。葬儀に出席しなければならないが、子を失った両親の悲しみを直視する勇気を持つことは容易ではない。

로마서 묵상 【거룩한 산 제사】 20251001(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

로마서 12:1~8 12:1 그러므로 형제들아 내가 하나님의 모든 자비하심으로 너희를 권하노니 너희 몸을 하나님이 기뻐하시는 거룩한 산 제사로 드리라 이는 너희의 드릴 영적 예배니라 12:2 너희는 이 세대를 본받지 말고 오직 마음을 새롭게 함으로 변화를 받아 하나님의 선하시고 기뻐하시고 온전하신 뜻이 무엇인지 분별하도록 하라 12:3 내게 주신 은혜로 말미암아 너희 중 각 사람에게 말하노니 마땅히…

ローマ人への手紙 黙想 【神の賜物と召命は】 20250930 (火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ローマ人への手紙 11:25~36 11:25 兄弟たち。あなたがたが自分を知恵のある者と考えないようにするために、この奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、 11:26 こうして、イスラエルはみな救われるのです。「救い出す者がシオンから現れ、ヤコブから不敬虔を除き去る。 11:27 これこそ、彼らと結ぶわたしの契約、すなわち、わたしが彼らの罪を取り除く時である」と書いてあるとおりです。 11:28 彼らは、福音に関して言えば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者です。 11:29 神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。 11:30 あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けています。 11:31 それと同じように、彼らも今は、あなたがたの受けたあわれみのゆえに不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今あわれみを受けるためです。 11:32 神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。 11:33 ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。 11:34 「だれが主の心を知っているのですか。だれが主の助言者になったのですか。 11:35 だれがまず主に与え、主から報いを受けるのですか。」 11:36 すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。   パウロはローマ教会の中で、ユダヤ人と異邦人が互いに非難したり軽蔑したりしないようにしなければなりませんでした。ユダヤ人は自分たちが先に選ばれた民であるという誇りを持つことができましたし、異邦人は今や自分たちが代わりに選ばれたのだという高慢に陥る危険がありました。パウロにとってこの整理は重要であり、神の救いが特定の集団の特権ではなく、すべての人に開かれている恵みであることを語らなければなりませんでした。 先に召されたユダヤ人も大切であり、後に召された異邦人も大切です。神は誰をも捨てられることはありません。ユダヤ人の不従順を通して異邦人に憐れみが流れ、さらに異邦人の救いを通してユダヤ人も憐れみを受けるようになりました。神の召しは、人間の不従順さえも用いてご自身の救いの御心を実現されます。神の召しは取り消されることもなく、失敗することもありません。 「神の賜物と召しとは取り消されることがない」(ローマ11:29)という言葉は、神が初めに始められたことを必ず完成されるという約束です。今は一時的に信仰の中にとどまっていないように見えるとしても、神が選ばれたものは神ご自身が必ず成就されます。救いは神の主権的な召しから始まり、神の御手によって完成されるのです。この召しという恵みの意識の中で、互いを尊重し合い共に生きることこそ、ローマ教会に向けられたパウロの心でありました。

로마서 묵상 【하나님의 은사와 부르심에는】 20250930(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

로마서 11:25~36 11:25 형제들아 너희가 스스로 지혜 있다 함을 면키 위하여 이 비밀을 너희가 모르기를 내가 원치 아니하노니 이 비밀은 이방인의 충만한 수가 들어오기까지 이스라엘의 더러는 완악하게 된 것이라 11:26 그리하여 온 이스라엘이 구원을 얻으리라 기록된바 구원자가 시온에서 오사 야곱에게서 경건치 않은 것을 돌이키시겠고 11:27 내가 저희 죄를 없이 할 때에 저희에게 이루어질 내 언약이…

ローマ人への手紙 黙想 【ユダヤ人と異邦人】 20250929 (月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ローマ人への手紙 11:11~24 11:11 それでは尋ねますが、彼らがつまずいたのは倒れるためでしょうか。決してそんなことはありません。かえって、彼らの背きによって、救いが異邦人に及び、イスラエルにねたみを起こさせました。 11:12 彼らの背きが世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らがみな救われることは、どんなにすばらしいものをもたらすことでしょう。 11:13 そこで、異邦人であるあなたがたに言いますが、私は異邦人への使徒ですから、自分の務めを重く受けとめています。 11:14 私は何とかして自分の同胞にねたみを起こさせて、彼らのうち何人かでも救いたいのです。 11:15 もし彼らの捨てられることが世界の和解となるなら、彼らが受け入れられることは、死者の中からのいのちでなくて何でしょうか。 11:16 麦の初穂が聖なるものであれば、こねた粉もそうなのです。根が聖なるものであれば、枝もそうなのです。 11:17 枝の中のいくつかが折られ、野生のオリーブであるあなたがその枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分をともに受けているのなら、 11:18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。 11:19 すると、あなたは「枝が折られたのは、私が接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。 11:20 そのとおりです。彼らは不信仰によって折られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がることなく、むしろ恐れなさい。 11:21 もし神が本来の枝を惜しまなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。 11:22 ですから見なさい、神のいつくしみと厳しさを。倒れた者の上にあるのは厳しさですが、あなたの上にあるのは神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り取られます。 11:23 あの人たちも、もし不信仰の中に居続けないなら、接ぎ木されます。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。 11:24 あなたが、本来野生であるオリーブから切り取られ、元の性質に反して、栽培されたオリーブに接ぎ木されたのであれば、本来栽培された枝であった彼らは、もっとたやすく自分の元のオリーブに接ぎ木されるはずです。   パウロは、ユダヤ人が福音を拒絶し、異邦人が福音を受け入れて救いに至ったことを、神の神秘的な摂理であると語っている。ユダヤ人が不信仰を選んだとき、その結果として福音は異邦人に伝えられ、異邦人の救いは再びユダヤ人の回復を刺激することになったというのである。枝と根の比喩を通してパウロは、福音を信じる者が恵みによって接ぎ木されたように、福音を拒んだ者たちのつまずきも終わりではなく、神は折れた枝を再び接ぎ木することがおできになると語っている。 しかし、これは血統や民族の運命を語っているのではない。ユダヤ人と異邦人という区別は、始まりと広がりを意味しているのであり、ユダヤ人と数多くの非ユダヤ民族を逐一区別しているのではない。「先の者と後の者」の間には確かに時間的な隔たりが存在する。しかし彼らはみな神の恵みのうちに立つというのが福音の原理である。世界宣教が西進を繰り返し、再びエルサレムに戻るというユダヤ中心の民族的解釈は、東方の誰かを新たな主人公に据えて聖書を地理的・民族的に解釈した結果にすぎない。 いわゆる親ユダヤ的キリスト教は、旧約のイスラエル回復の預言を現代イスラエル国家の建国と結びつける。しかし、キリストにおいて完成された契約を、特定の民族の政治的事件に還元することはできない。パウロがローマ書9章で「真のイスラエル」について語ったとき、それは血統や民族ではなく信仰であった。エフェソ書2章では、すでにイエス・キリストにおいてユダヤ人と異邦人の壁が打ち壊されたことを宣言している。なぜ再びそれを築こうとするのか。 特定の民族が終末の鍵を握っているかのように強調することは、福音の中心を曖昧にし、十字架と復活という本質を覆い隠すことである。そのようなものに惑わされた教会は、福音の感激よりも政治的終末論に取り込まれてしまう。韓国の一部の教会で星条旗とイスラエル国旗を同時に振る現象は、その歪みの典型的な事例である。こうした立場に同調する人々はイスラエルを無批判に擁護し、パレスチナや周辺の民族を排除する態度につながる。信仰告白が特定の国家や政治理念と結びつくとき、人類に普遍的に与えられるべき福音は民族主義や政治的論理に従属してしまう。 教会は、キリスト教の社会参加が批判的な公的神学ではなく、政治的動員の道具へと堕落することを許してはならない。福音は本質的に和解と普遍性を持っている。すべての異邦人とユダヤ人が同じように信仰によって救われるという事実を信じるのだ。中国の教会がイスラエルに宣教を行うことは良いことであり、イスラエルの人々がイエスを信じることも良いことである。ただし誤解してはならない。異邦人とは、今ここで宣教を担う教会のことであり、ユダヤとはかつて福音を拒絶したすべての人々を指している。真の福音を持つ真の伝道者たちは、彼らに再び福音を告げ知らせるだろう。

로마서 묵상 【유대인과 이방인】 20250929(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

로마서 11:11~24 11:11 그러므로 내가 말하노니 저희가 넘어지기까지 실족하였느뇨 그럴 수 없느니라 저희의 넘어짐으로 구원이 이방인에게 이르러 이스라엘로 시기나게 함이니라 11:12 저희의 넘어짐이 세상의 부요함이 되며 저희의 실패가 이방인의 부요함이 되거든 하물며 저희의 충만함이리요 11:13 내가 이방인인 너희에게 말하노라 내가 이방인의 사도인만큼 내 직분을 영광스럽게 여기노니 11:14 이는 곧 내 골육을 아무쪼록 시기케 하여 저희…

ローマ人への手紙 黙想 【残りの者だけが救われる】 20250925 (木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ローマ人への手紙 9:25–33 9:25 それは、ホセアの書でも神が言っておられるとおりです。「わたしは、わたしの民でない者をわたしの民と呼び、愛されない者を愛される者と呼ぶ。 9:26 あなたがたはわたしの民ではない、と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」 9:27 イザヤはイスラエルについてこう叫んでいます。「たとえ、イスラエルの子らの数が海の砂のようであっても、残りの者だけが救われる。 9:28 主が、語られたことを完全に、かつ速やかに、地の上で行おうとしておられる。」 9:29 また、イザヤがあらかじめ告げたとおりです。「もしも、万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったなら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていたであろう。」 9:30 それでは、どのように言うべきでしょうか。義を追い求めなかった異邦人が義を、すなわち、信仰による義を得ました。 9:31 しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。 9:32 なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。 9:33 「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。この方に信頼する者は失望させられることがない」と書いてあるとおりです。   パウロは、救いが民族的特権や血統によるのではなく、全く神の恵みと憐れみ、そして主権にかかっていることを明らかにした。それはユダヤ人を排除する論理ではなく、異邦人を受け入れる論理であった。救いはイスラエルという境界の中に閉じ込められてはいない。ホセアとイザヤを通して、神は「わたしの民でなかった者をわたしの民と呼び」、「愛されなかった者を愛される者と呼ばれた」。これは異邦人へと開かれた普遍的な福音の地平を示している。パウロの一貫した主題と核心は、神の救いがユダヤにとどまらないという宣教の拡張である。救いをキリスト教的規範の内に限定しようとすることは、律法主義が繰り返してきた過ちである。神の救いを妨げることのできるいかなるバリケードも存在しない。 救いの条件は所属や行為ではない。ただ信仰のみである。「ただ」という言葉は、行為や律法が排除されることを意味すると同時に、他のいかなるものとも混ざり合わない純粋な状態を指す。「ただ信仰」の状態を持ったことがあるかどうか、私たちは問わなければならない。「ただ聖書」(Sola Scriptura)、すなわち御言葉に支配されない人は「ただ信仰」(Sola Fide)を経験したことのない人である。イザヤは、イスラエルの数が海の砂のように多くても、残された者だけが救われると警告した。救いにおいて多数であることは保証にならない。むしろ多数は盲目的な群衆となる可能性が大きい。救いは血統的イスラエル、すなわち宗教的所属ではなく、信仰によって残る者にのみ与えられる。ゆえに信仰とは集団的なものではなく、主体は集団ではなく個人である。聖徒は自らの信仰について人格的責任を負わなければならず、集団的言語の中に隠れて抽象的な信仰を告白していないか省察しなければならない。 パウロは律法学者らしく、旧約全体を通して福音を示している。福音の中で御言葉は新たに鮮明となった。これこそがパウロの情熱であった。彼は異邦人とイスラエルを対比した。義を追い求めなかった異邦人は信仰によって義を得たが、律法に没頭していたイスラエルはかえって律法に到達できなかった。救いは努力の結果ではなく、ただ信仰による恵みの賜物である。信仰を再定義し更新しない者の終わりは、必ず形式主義と律法主義である。自ら生きようとする者は生きることができず、律法を守ろうとする者は律法を守り通すことができない。人間を理解しない者は救いを理解することもできない。しかし、自らの壊れを認め、信仰によって生きるとは何かを深く思い悩む者は、ついには救いに至らせる信仰を悟るのである。

로마서 묵상 【남은 자만 구원을 얻으리니】 20250925(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

로마서 9:25–33 9:25 호세아 글에도 이르기를 내가 내 백성 아닌 자를 내 백성이라, 사랑하지 아니한 자를 사랑한 자라 부르리라 9:26 너희는 내 백성이 아니라 한 그 곳에서 그들이 살아 계신 하나님의 아들이라 일컬음을 받으리라 함과 같으니라 9:27 또 이사야가 이스라엘에 관하여 외치되 이스라엘 자손의 수가 비록 바다의 모래 같을지라도 남은 자만 구원을 얻으리니 9:28 주께서…

ローマ人への手紙 黙想 【積極的受動態】 20250924 (水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ローマ人への手紙  9:14~29 9:14 それでは、どのように言うべきでしょうか。神に不正があるのでしょうか。決してそんなことはありません。 9:15 神はモーセに言われました。「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。」 9:16 ですから、これは人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。 9:17 聖書はファラオにこう言っています。「このことのために、わたしはあなたを立てておいた。わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に知らしめるためである。」 9:18 ですから、神は人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままに頑なにされるのです。 9:19 すると、あなたは私にこう言うでしょう。「それではなぜ、神はなおも人を責められるのですか。だれが神の意図に逆らえるのですか。」 9:20 人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。 9:21 陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。 9:22 それでいて、もし神が、御怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられたのに、滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうですか。 9:23 しかもそれが、栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器に対して、ご自分の豊かな栄光を知らせるためであったとすれば、どうですか。 9:24 このあわれみの器として、神は私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。 9:25 それは、ホセアの書でも神が言っておられるとおりです。「わたしは、わたしの民でない者をわたしの民と呼び、愛されない者を愛される者と呼ぶ。 9:26 あなたがたはわたしの民ではない、と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」 9:27 イザヤはイスラエルについてこう叫んでいます。「たとえ、イスラエルの子らの数が海の砂のようであっても、残りの者だけが救われる。 9:28 主が、語られたことを完全に、かつ速やかに、地の上で行おうとしておられる。」 9:29 また、イザヤがあらかじめ告げたとおりです。「もしも、万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったなら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていたであろう。」   8章では「誰が私たちをキリストの愛から引き離すことができようか」と確信を語ったが、続く9章では別の緊張が提示される。「それでは、神の愛と約束を受けたイスラエルが、なぜこのように福音を拒むのか」という問題である。パウロはこの問いに対して、「神に不義があるのか。決してそうではない」と断言する。 不義は誤解した人間の側にある。救いの決定は民族や宗教への所属ではなく、神の憐れみにある。ユダヤ人の選民意識というものも、神の憐れみの外にある絶対的な資格ではあり得ない。それにもかかわらず、ユダヤ人は自らの宗教的能力を誤解し、傲慢な誇りに陥っていた。それゆえに彼らは、恵みと憐れみの神を発見することができなかったのである。 教会の歴史は、救いの決定が神の選びのみにあるのか、それとも人間の信仰の意志にもあるのか、いわゆる予定論と自由意志をめぐる論争を繰り返してきた。カルヴァン主義は全的堕落と無条件的選びを強調し、アルミニウス主義は普遍的恩恵と条件的選びを主張した。そしてそれは今も私たちの周囲に共存している。私たちはこの本文をその延長線上で考えているかもしれない。 しかし、パウロが今ローマ教会に語っているのは予定論ではなく、ユダヤ人だけでなくすべての人に救いが開かれているという意味での神の主権である。すなわち、神の憐れみはユダヤ人に対する排他的特権ではなく、「わたしは憐れむ者を憐れみ、あわれむ者をあわれむ」とモーセに語られた御言葉や、「わたしの民でない者をわたしの民と呼ぶ」とホセアに語られた御言葉のように、すべての異邦人にまで人類普遍的救いの道具として福音が広がっていくのである。 パウロは民族主義や宗教的・集団的特権意識を解体し、ローマ教会に福音的な視野を開いている。福音はユダヤを通して来たが、ユダヤを超えなければならなかった。私たちの信仰も宗教を通して来たが、宗教の集団性を超えてこそ福音の本質に出会うことができる。聖徒は孤独な自己存在に向き合い、そこで福音と出会わなければならない。群衆の宗教性に埋もれた自己確信を捨て、人格的な福音に出会わなければならない。 陶器師と粘土のたとえを正しく理解した者は衝撃を受けただろう。造られた者が創造主に対して、自らの存在について抗議できるというのか。それは知識の問題ではなく、悟りの問題である。救いを悟った人間は、その恵みの神秘の前に立ち尽くすしかない。私たちは「造られた者」、「選ばれた者」、「救われた者」としての信仰の道に立っている。それは決して信仰が消極的で受動的であることを意味しない。人の言葉と誇りは控え、「召しに応える応答」と「用いられる情熱」という積極的受動態として生きるだけなのである。

로마서 묵상 【적극적 수동태】 20250924(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

로마서 9:14~29 9:14 그런즉 우리가 무슨 말 하리요 하나님께 불의가 있느뇨 그럴 수 없느니라 9:15 모세에게 이르시되 내가 긍휼히 여길 자를 긍휼히 여기고 불쌍히 여길 자를 불쌍히 여기리라 하셨으니 9:16 그런즉 원하는 자로 말미암음도 아니요 달음박질하는 자로 말미암음도 아니요 오직 긍휼히 여기시는 하나님으로 말미암음이니라 9:17 성경이 바로에게 이르시되 내가 이 일을 위하여 너를 세웠으니 곧…