ローマ人への手紙 黙想 【積極的受動態】 20250924 (水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ローマ人への手紙  9:14~29 9:14 それでは、どのように言うべきでしょうか。神に不正があるのでしょうか。決してそんなことはありません。 9:15 神はモーセに言われました。「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。」 9:16 ですから、これは人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。 9:17 聖書はファラオにこう言っています。「このことのために、わたしはあなたを立てておいた。わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に知らしめるためである。」 9:18 ですから、神は人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままに頑なにされるのです。 9:19 すると、あなたは私にこう言うでしょう。「それではなぜ、神はなおも人を責められるのですか。だれが神の意図に逆らえるのですか。」 9:20 人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。 9:21 陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。 9:22 それでいて、もし神が、御怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられたのに、滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうですか。 9:23 しかもそれが、栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器に対して、ご自分の豊かな栄光を知らせるためであったとすれば、どうですか。 9:24 このあわれみの器として、神は私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。 9:25 それは、ホセアの書でも神が言っておられるとおりです。「わたしは、わたしの民でない者をわたしの民と呼び、愛されない者を愛される者と呼ぶ。 9:26 あなたがたはわたしの民ではない、と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」 9:27 イザヤはイスラエルについてこう叫んでいます。「たとえ、イスラエルの子らの数が海の砂のようであっても、残りの者だけが救われる。 9:28 主が、語られたことを完全に、かつ速やかに、地の上で行おうとしておられる。」 9:29 また、イザヤがあらかじめ告げたとおりです。「もしも、万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったなら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていたであろう。」   8章では「誰が私たちをキリストの愛から引き離すことができようか」と確信を語ったが、続く9章では別の緊張が提示される。「それでは、神の愛と約束を受けたイスラエルが、なぜこのように福音を拒むのか」という問題である。パウロはこの問いに対して、「神に不義があるのか。決してそうではない」と断言する。 不義は誤解した人間の側にある。救いの決定は民族や宗教への所属ではなく、神の憐れみにある。ユダヤ人の選民意識というものも、神の憐れみの外にある絶対的な資格ではあり得ない。それにもかかわらず、ユダヤ人は自らの宗教的能力を誤解し、傲慢な誇りに陥っていた。それゆえに彼らは、恵みと憐れみの神を発見することができなかったのである。 教会の歴史は、救いの決定が神の選びのみにあるのか、それとも人間の信仰の意志にもあるのか、いわゆる予定論と自由意志をめぐる論争を繰り返してきた。カルヴァン主義は全的堕落と無条件的選びを強調し、アルミニウス主義は普遍的恩恵と条件的選びを主張した。そしてそれは今も私たちの周囲に共存している。私たちはこの本文をその延長線上で考えているかもしれない。 しかし、パウロが今ローマ教会に語っているのは予定論ではなく、ユダヤ人だけでなくすべての人に救いが開かれているという意味での神の主権である。すなわち、神の憐れみはユダヤ人に対する排他的特権ではなく、「わたしは憐れむ者を憐れみ、あわれむ者をあわれむ」とモーセに語られた御言葉や、「わたしの民でない者をわたしの民と呼ぶ」とホセアに語られた御言葉のように、すべての異邦人にまで人類普遍的救いの道具として福音が広がっていくのである。 パウロは民族主義や宗教的・集団的特権意識を解体し、ローマ教会に福音的な視野を開いている。福音はユダヤを通して来たが、ユダヤを超えなければならなかった。私たちの信仰も宗教を通して来たが、宗教の集団性を超えてこそ福音の本質に出会うことができる。聖徒は孤独な自己存在に向き合い、そこで福音と出会わなければならない。群衆の宗教性に埋もれた自己確信を捨て、人格的な福音に出会わなければならない。 陶器師と粘土のたとえを正しく理解した者は衝撃を受けただろう。造られた者が創造主に対して、自らの存在について抗議できるというのか。それは知識の問題ではなく、悟りの問題である。救いを悟った人間は、その恵みの神秘の前に立ち尽くすしかない。私たちは「造られた者」、「選ばれた者」、「救われた者」としての信仰の道に立っている。それは決して信仰が消極的で受動的であることを意味しない。人の言葉と誇りは控え、「召しに応える応答」と「用いられる情熱」という積極的受動態として生きるだけなのである。

로마서 묵상 【적극적 수동태】 20250924(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

로마서 9:14~29 9:14 그런즉 우리가 무슨 말 하리요 하나님께 불의가 있느뇨 그럴 수 없느니라 9:15 모세에게 이르시되 내가 긍휼히 여길 자를 긍휼히 여기고 불쌍히 여길 자를 불쌍히 여기리라 하셨으니 9:16 그런즉 원하는 자로 말미암음도 아니요 달음박질하는 자로 말미암음도 아니요 오직 긍휼히 여기시는 하나님으로 말미암음이니라 9:17 성경이 바로에게 이르시되 내가 이 일을 위하여 너를 세웠으니 곧…