ゼカリヤ 黙想 【裁きの領域】 20251023(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ゼカリヤ 9:1~8 9:1 宣告。主のことばはハデラクの地にあり、ダマスコは、それがとどまる場所。主に向けられるのは、人々の、そしてイスラエルの全部族の目。 9:2 これに境を接するハマテや、非常に知恵のあるツロやシドンの目も。 9:3 ツロは自分のために砦を築き、銀をちりのように、黄金を道端の泥のように積み上げた。 9:4 見よ。主はツロを占領し、その富を海に打ち捨てる。ツロは火で焼き尽くされる。 9:5 アシュケロンは見て恐れ、ガザも大いにもだえる。エクロンもだ。自分たちが頼みにしていたものが辱められたからだ。ガザから王が消え失せ、アシュケロンには人が住まなくなる。 9:6 アシュドデには混血の民が住むようになる。わたしはペリシテ人の誇りを断ち切り、 9:7 その口から流血の咎を、その歯の間から忌まわしいものを取り除く。彼も、私たちの神のために残され、ユダの中の一首長のようになる。エクロンもエブス人のようになる。 9:8 わたしは、わたしの家のために、行き来する者の見張りとして衛所に立つ。もはや、虐げる者はそこを通らない。今わたしがこの目で見ているからだ。   神の言葉の警告がユダの周辺諸国に及ぶ。神はツロとシドンの富と知恵、ペリシテの高慢を裁かれ、その世俗的な権勢を打ち倒される。しかし、その裁きの中にも残りの者を保たれ、彼らを神ご自身のもとに立ち返らせ、暴虐の道を閉ざしてご自分の民を守られる。ここには、神の主権的な裁きと保護、そして回復の恵みが同時に働いている。 ここで語られるユダの周辺諸国とは、単なる地理的な境界ではない。神なき自律と自己救済の意志を象徴する世俗的な体系として読むべきである。神を排除し、人間中心の秩序に従う社会——信仰が押し出され、世の論理が支配する世界である。成果と所有を絶対化する資本の秩序、快楽と自己確信で飾られた自我の崇拝、そして市場と自我が神の座を奪う機能的無神論(神の存在を積極的に否定はしないが、実用的理由で信じようとしない態度)である。利益が信仰となり、自己実現が救いの物語にすり替えられた世界——それが今日のツロとシドンである。 神はまさにその領域に介入される。神の統治は、教会や宗教という制度的な囲いの中に限定されない。神は世のただ中に御言葉を送り、人間が絶対化してしまった偽りの秩序を揺り動かされる。神の裁きは報復ではなく、破壊のための破壊でもない。それは偶像を解体し、神ご自身を啓示する出来事である。神が世界の構造を揺るがされるのは、その中に隠された虚像を打ち砕き、その場所に神の実在的主権を現すためである。

스가랴 묵상 【심판의 영역】 20251023(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

스가랴 9:1~8 9:1 여호와의 말씀의 경고가 하드락 땅에 임하며 다메섹에 머물리니 세상 사람과 이스라엘 모든 지파의 눈이 여호와를 우러러 봄이니라 9:2 그 접경된 하맛에도 임하겠고 두로와 시돈은 넓은 지혜가 있으니 그들에게도 임하리라 9:3 두로는 자기를 위하여 보장을 건축하며 은을 티끌 같이 정금을 거리의 진흙 같이 쌓았은즉 9:4 주께서 그를 쫓아 내시며 그의 바다 권세를 치시리니…

ゼカリヤ 黙想 【Missio Dei】 20251022(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ゼカリヤ 8:18~23 8:18 さらに、私に次のような万軍の主のことばがあった。 8:19 万軍の主はこう言われる。「第四の月の断食、第五の月の断食、第七の月の断食、第十の月の断食は、ユダの家にとって、楽しみとなり、喜びとなり、うれしい例祭となる。だから、真実と平和を愛しなさい。」 8:20 万軍の主はこう言われる。「再び諸国の民がやって来る。多くの町々の住民が。 8:21 一つの町の住民はもう一つの町へ行き、『さあ行って、主の御顔を求め、万軍の主を尋ね求めよう。私も行こう』と言う。 8:22 多くの国の民、強い国々が、エルサレムで万軍の主を尋ね求め、主の御顔を求めるために来る。」 8:23 万軍の主はこう言われる。「その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、一人のユダヤ人の裾を固くつかんで言う。『私たちもあなたがたと一緒に行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたから。』」   7章で神は、形式的な断食と外面的な信仰を戒められた。しかし今や、その断食が喜びと楽しみの祭りの日に変わることを約束される。神が臨在されるとき、不在の時代を象徴していた断食はもはや意味を持たず、その代わりに喜びがその座を占めるだろう。人々は神殿という建物に執着していたが、神の臨在はそのような条件や構造に比例するものではない。神殿が再建されたからではなく、神が憐れみによって再び臨在してくださるからである。イエスは「花婿が共にいる間は断食できない」と言われたが、そのときこの御言葉を思い起こしておられたに違いない。 神の臨在によって回復されたシオンは、決して自分の中にとどまらない。「その後、多くの民と多くの町の住民が来るであろう。」神が共におられる場所は、必ず世界に向かって開かれている。閉ざされた、自己中心的な神の国など存在しない。神がひとつの国を回復されたのは、特定の民族のためではなく、神の支配が諸国民に流れ出す出発点とするためである。ゆえに回復はユダの自慢ではなく、諸国を招く神の招待である。神の臨在がとどまる共同体は、必然的に人を引き寄せる力を持っている。宣教は人間の努力による拡大ではなく、神の臨在が生み出す結果なのである。 これこそが 神の宣教(Missio Dei)である。「Missio Dei」とはラテン語で「神の宣教」を意味し、宣教の主体が教会ではなく神ご自身であることを示す神学的概念である。父なる神が御子を、御子が聖霊を遣わされたように、宣教の主体は神であり、教会は神の宣教に参与する共同体である。神の臨在は神殿という囲いの中に閉じ込められる制度的問題ではなく、神が選ばれた民を通して世界の中にご自身と契約を現される出来事である。教会はその臨在の証であり、通路として召された存在だ。臨在の確信は個人の内面にとどまるものではなく、世界に向かうメッセージとして開かれていくべきである。

스가랴 묵상 【Missio Dei】 20251022(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

스가랴 8:18~23 8:18 만군의 여호와의 말씀이 내게 임하여 이르시되 8:19 만군의 여호와가 말하노라 사월의 금식과 오월의 금식과 칠월의 금식이 변하여 유다 족속에게 기쁨과 즐거움과 희락의 절기가 되리니 오직 너희는 진실과 화평을 사랑할찌니라 8:20 만군의 여호와가 말하노라 그 후에 여러 백성과 많은 성읍의 거민이 올 것이라 8:21 이 성읍 거민이 저 성읍에 가서 이르기를 우리가 속히…