ゼカリヤ 8:18~23
8:18 さらに、私に次のような万軍の主のことばがあった。
8:19 万軍の主はこう言われる。「第四の月の断食、第五の月の断食、第七の月の断食、第十の月の断食は、ユダの家にとって、楽しみとなり、喜びとなり、うれしい例祭となる。だから、真実と平和を愛しなさい。」
8:20 万軍の主はこう言われる。「再び諸国の民がやって来る。多くの町々の住民が。
8:21 一つの町の住民はもう一つの町へ行き、『さあ行って、主の御顔を求め、万軍の主を尋ね求めよう。私も行こう』と言う。
8:22 多くの国の民、強い国々が、エルサレムで万軍の主を尋ね求め、主の御顔を求めるために来る。」
8:23 万軍の主はこう言われる。「その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、一人のユダヤ人の裾を固くつかんで言う。『私たちもあなたがたと一緒に行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたから。』」
7章で神は、形式的な断食と外面的な信仰を戒められた。しかし今や、その断食が喜びと楽しみの祭りの日に変わることを約束される。神が臨在されるとき、不在の時代を象徴していた断食はもはや意味を持たず、その代わりに喜びがその座を占めるだろう。人々は神殿という建物に執着していたが、神の臨在はそのような条件や構造に比例するものではない。神殿が再建されたからではなく、神が憐れみによって再び臨在してくださるからである。イエスは「花婿が共にいる間は断食できない」と言われたが、そのときこの御言葉を思い起こしておられたに違いない。
神の臨在によって回復されたシオンは、決して自分の中にとどまらない。「その後、多くの民と多くの町の住民が来るであろう。」神が共におられる場所は、必ず世界に向かって開かれている。閉ざされた、自己中心的な神の国など存在しない。神がひとつの国を回復されたのは、特定の民族のためではなく、神の支配が諸国民に流れ出す出発点とするためである。ゆえに回復はユダの自慢ではなく、諸国を招く神の招待である。神の臨在がとどまる共同体は、必然的に人を引き寄せる力を持っている。宣教は人間の努力による拡大ではなく、神の臨在が生み出す結果なのである。
これこそが 神の宣教(Missio Dei)である。「Missio Dei」とはラテン語で「神の宣教」を意味し、宣教の主体が教会ではなく神ご自身であることを示す神学的概念である。父なる神が御子を、御子が聖霊を遣わされたように、宣教の主体は神であり、教会は神の宣教に参与する共同体である。神の臨在は神殿という囲いの中に閉じ込められる制度的問題ではなく、神が選ばれた民を通して世界の中にご自身と契約を現される出来事である。教会はその臨在の証であり、通路として召された存在だ。臨在の確信は個人の内面にとどまるものではなく、世界に向かうメッセージとして開かれていくべきである。