ゼカリヤ 黙想 【罪と汚れをきよめる泉】 20251028(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
ゼカリヤ 13:1~9 13:1 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。 13:2 その日──万軍の主のことば──わたしはもろもろの偶像の名を、この地から絶ち滅ぼす。それらの名はもう覚えられない。わたしはまた、その預言者たちと汚れの霊をこの国から除く。 13:3 なお預言する者があれば、その人を生んだ父と母が彼に向かって言う。『あなたは生きていてはならない。主の名を使って噓を告げたから。』彼が預言しているときに、彼を生んだ父と母が彼を突き刺す。 13:4 その日、預言者たちはみな、自分が預言する幻を恥じる。彼らはもはや人を欺くための毛衣を着なくなる。 13:5 また彼は、『私は預言者ではない。私は土地を耕す者だ。若いときに人が私を買い取った』と言う。 13:6 だれかが『あなたの両腕の間にある、この打ち傷は何か』と聞くなら、彼は『私の愛人たちの家で打たれたものだ』と言う。 13:7 剣よ、目覚めよ。わたしの羊飼いに向かい、わたしの仲間に向かえ──万軍の主のことば──。羊飼いを打て。すると、羊の群れは散らされて行き、わたしは、この手を小さい者たちに向ける。 13:8 全地はこうなる──主のことば──。その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。 13:9 わたしはその三分の一を火の中に入れ、銀を錬るように彼らを錬り、金を試すように彼らを試す。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民』と言い、彼らは『主は私の神』と言う。」 神はダビデの家とエルサレムの人々のために、「罪と汚れから清める泉」を開かれると語られた。ここで言う「泉」はヘブライ語でマコール(מָקוֹר)である。それは人工的に水を貯めた貯水池ではなく、自然に湧き出る水の源泉を意味する。貯水池の水はたまるが、泉の水は流れる。 貯水池の水は時が経つと枯れたり腐ったりするが、泉は湧き出て流れ続けるので、常に新しい。 詩篇36篇9節に「あなたはいのちの源であり」とあるが、ここでの「源」がマコールである。またエレミヤ書2章13節で、「彼らは生ける水の源であるわたしを捨て、水のない貯水池を掘った」と言われるときの「生ける水の源」もマコールである。その泉で洗われるなら、清められることができる。自分で洗うのではなく、泉そのものによって自分が洗われるのだ。神はそれを約束された。 熱心な人々の中には、信仰を「保存」しようとする者がいる。信仰を守り、閉じ込めようとする。そのために、聞こうともせず、見ようともせず、試みたり挑戦したりもしない。昔のやり方のまま、貯水池にもう一杯の水を注ぎ込み、再び閉じ込めようとする。しかし、信仰を保存していると思った瞬間、すでに変質が始まっているのかもしれない。自分の罪をその泉に洗い流し、とどまらず、流れ出ていくとき、信仰は動き続けるいのちとなる。神の泉は今も湧き出ている。その流れの中でこそ、私たちは清められ、生きている。


