ゼカリヤ 黙想 【主の日】 20251029(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師

ゼカリヤ 14:1~8 14:1 見よ、主の日が来る。あなたから奪われた戦利品が、あなたのただ中で分配される。 14:2 「わたしはすべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。都は取られ、家々は略奪され、女たちは犯される。都の半分は捕囚となって出て行く。しかし、残りの民は都から絶ち滅ぼされない。」 14:3 主が出て行かれる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。 14:4 その日、主の足はエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山はその真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ、残りの半分は南へ移る。 14:5 「山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたはわたしの山々の谷に逃げる。ユダの王ウジヤの時に地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げる。」私の神、主が来られる。すべての聖なる者たちも、主とともに来る。 14:6 その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。 14:7 これはただ一つの日であり、その日は主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に光がある。 14:8 その日には、エルサレムからいのちの水が流れ出る。その半分は東の海に、残りの半分は西の海に向かい、夏にも冬にも、それは流れる。   「主の日が来る。」(14:1)エルサレムの都は攻められ、民の半分は捕らえ移される。それはまるで、かつてのバビロン侵攻の出来事をもう一度語るようであり、またローマによる滅亡を予告する言葉としても読むことができる。しかし、ゼカリヤの雄弁は単なる歴史の再現ではない。彼が語るのは終末的な「最後の日」、すなわち神がこの世界の秩序を新しくされる「主の日」である。ゼカリヤが見たエルサレムの崩壊は、帝国の歴史ではなく、神の新しい創造が始まるために、人間に与えられた秩序が壊される「創造的破壊」であった。人の秩序が崩れ、神の支配が始まる転換の瞬間なのである。 「その日には光がなく……夕べにも光があるだろう。」(14:6–7)昼と夜、成功と失敗という秩序は、人間にとってあまりにも当たり前のものだ。しかしその当たり前の秩序が退き、新しい時間が到来する。死すべき人間が心の底から願う究極の祝福、それがこの「新しい時」である。どんな論理も、どんな秩序も、神を教えることはできない。人間にとって厳格な時間でさえ、神を先取りしたり支配したりすることはできない。すべてが終わったかのような暗闇の中にあっても、その闇の只中で、神は新しい光を備えられる。光は闇の中でこそ、その価値をより深く放つ。だからゼカリヤは言うのだ。「夕べにも光があるだろう。」私には「ない」ように見えても、神には「ある」。それが信仰の言葉である。 そして「その日、エルサレムから生ける水が湧き出で、その半分は東の海に、半分は西の海に流れる。」(14:8)十三章に出てきた「清めの泉」から、今や生ける水が全世界へと流れ出す。その泉はとどまることなく、絶えず湧き出る。闇の中にも光があり、廃墟の中にも水が湧く。「主の日」は破壊と滅亡の日ではなく、慰めと希望の日である。その生ける水は、罪と後悔に苦しむ人間の心に流れ込み、それを潤し、洗い清め、再び流れ出ていく。たとえ人生の「青い夕暮れ」を迎えるような虚しさの中にあっても、「主の日」には光が差し込む。

스가랴 묵상 【여호와의 날】 20251029(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

스가랴 14:1~8 14:1 여호와의 날이 이르리라 그 날에 네 재물이 약탈되어 너의 중에서 나누이리라 14:2 내가 열국을 모아 예루살렘과 싸우게 하리니 성읍이 함락되며 가옥이 약탈되며 부녀가 욕을 보며 성읍 백성이 절반이나 사로잡혀가려니와 남은 백성은 성읍에서 끊쳐지지 아니하리라 14:3 그 때에 여호와께서 나가사 그 열국을 치시되 이왕 전쟁 날에 싸운 것 같이 하시리라 14:4 그 날에…