ヨシュア記 黙想【奇跡を通して】20251128(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生
ヨシュア記 10:1-14 10:1 エルサレムの王アドニ・ツェデクは、ヨシュアがアイを攻め取って、それを聖絶し、エリコとその王にしたようにアイとその王にもしたこと、またギブオンの住民がイスラエルと和を講じて、彼らのただ中にいることを聞いた。 10:2 彼とその民は非常に恐れた。ギブオンが王国の都の一つのように大きな町であり、またアイよりも大きく、そこの人々がみな勇士だったからである。 10:3 エルサレムの王アドニ・ツェデクはヘブロンの王ホハム、ヤルムテの王ピルアム、ラキシュの王ヤフィア、エグロンの王デビルに人を遣わして言った。 10:4 「私のところに上って来て、私を助けてください。ギブオンを討ちましょう。ギブオンがヨシュア、およびイスラエルの子らと和を講じたからです。」 10:5 それでアモリ人の五人の王、すなわち、エルサレムの王、ヘブロンの王、ヤルムテの王、ラキシュの王、エグロンの王、彼らとその全陣営は集結し、上って行ってギブオンに向かって陣を敷き、戦いを挑んだ。 10:6 ギブオンの人々はヨシュアのところ、ギルガルの陣営に人を遣わして言った。「しもべどもから手を引かないで、急いで私たちのところに上って来て、私たちを救い、助けてください。山地に住むアモリ人の王たちがみな、私たちに向かって集まっているのです。」 10:7 ヨシュアはすべての戦う民たちとすべての勇士たちとともに、ギルガルから上って行った。 10:8 主はヨシュアに告げられた。「彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手に渡したからだ。あなたの前に立ちはだかる者は彼らの中に一人としていない。」 10:9 ヨシュアは夜通しギルガルから上って行って、突然彼らを襲った。 10:10 主は彼らをイスラエルの前でかき乱された。イスラエルはギブオンで彼らを激しく討ち、ベテ・ホロンの上り坂を通って彼らを追い、アゼカとマケダに至るまで彼らを討った。 10:11 彼らがイスラエルの前から逃げて、ベテ・ホロンの下り坂にいたとき、主が天から彼らの上に、大きな石をアゼカに至るまで降らせられたので、彼らは死んだ。イスラエルの子らが剣で殺した者よりも、雹の石で死んだ者のほうが多かった。 10:12 主がアモリ人をイスラエルの子らに渡されたその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。「太陽よ、ギブオンの上で動くな。月よ、アヤロンの谷で。」 10:13 民がその敵に復讐するまで、太陽は動かず、月はとどまった。これは『ヤシャルの書』に確かに記されている。太陽は天の中間にとどまって、まる一日ほど、急いで沈むことはなかった。 10:14 主が人の声を聞き入れられたこのような日は、前にも後にもなかった。主がイスラエルのために戦われたからである。 ヨシュア記に記されている征服戦争の物語には、神様ご自身が行われた多くの奇跡が登場します。そのため、ときにヨシュア記を読む読者や研究者の中には、疑問や批判を抱く者もいます。とりわけ、今日の本文にある「太陽と月がとどまった」という出来事は、最も頻繁に取り上げられる奇跡の一つです。 ヨシュア記だけでなく、聖書には数多くの奇跡が記録されています。私たちが常識や、これまでの科学技術の知識に照らして見たとき、到底不可能だと思われる事柄が、聖書の中では繰り返し起こっています。それでは、私たちはこれらの奇跡をどのように受け止めるべきなのでしょうか。 神様の奇跡は、気まぐれに乱発されるものではありません。聖書に記されたすべての奇跡、そしてその奇跡に基づく裁きでさえ、神の民と深く関わっています。それらの出来事は、確かに神様が造られたこの世界の法則を超えるもののように見えます。 しかし、それでもなお神様がそのような奇跡を行われるのは、神様がこの世界を、ご自身の民のために造られたからです。今日の本文にあるように、神様がイスラエルのために戦われたゆえに、これらすべての奇跡は可能となったのです。 神様が造られた世界の中で、神様にできないことは何一つありません。また、私たちがそのすべてを理解できるわけでもありません。私たちは聖書の奇跡を前にして、それを分析し、解明しようとするよりも、その奇跡を起こされた神様がどのようなお方であるかが、すでに明らかにされていることに目を向けるべきなのです。 そのような神様が、今日も私の人生に共におられ、私を愛し、救おうとしておられる――その事実をあらためて心に刻みながら歩んでいけばよいのです。 https://youtu.be/V0M1OKDUoRs?si=wrIbC_oRajbB5sQA


