ヨシュア 黙想 【書かずに知っていると言う嘘】 20251203(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨシュア 12:1~24 12:1 ヨルダンの川向こう、日の昇る方で、アルノン川からヘルモン山までの全東アラバにおいて、イスラエルの子らが討ち、占領した地の王たちは次のとおりである。 12:2 ヘシュボンに住んでいた、アモリ人の王シホン。彼はアルノンの渓谷の縁にあるアロエルから、その渓谷の中、およびギルアデの半分、そしてアンモン人の国境ヤボク川まで、 12:3 またアラバ、すなわち、キネレテ湖の東まで、またアラバの海すなわち塩の海の東まで、ベテ・ハ・エシモテへの道まで、そして南はピスガの傾斜地のふもとまでを支配していた。 12:4 アシュタロテとエデレイに住む、レファイムの生き残りの一人である、バシャンの王オグの領土。 12:5 彼はヘルモン山、サルカ、ゲシュル人とマアカ人との国境に至るバシャンの全土、ギルアデの半分、ヘシュボンの王シホンの国境までを支配していた。 12:6 主のしもべモーセとイスラエルの子らは、彼らを討った。主のしもべモーセはルベン人とガド人と、マナセの半部族に、その地を所有地として与えた。 12:7 ヨルダン川のその反対側、西の方で、レバノンの谷のバアル・ガドから、セイルへ上るハラク山までで、ヨシュアとイスラエルの人々が討ったその地の王たちは、次のとおりである。ヨシュアはイスラエルの部族に、彼らへの割り当てにしたがって、この地を所有地として与えた。 12:8 この王たちは山地、シェフェラ、アラバ、傾斜地、荒野、ネゲブに住んでいて、ヒッタイト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人であった。 12:9 エリコの王、一人。ベテルの隣のアイの王、一人。 12:10 エルサレムの王、一人。ヘブロンの王、一人。 12:11 ヤルムテの王、一人。ラキシュの王、一人。 12:12 エグロンの王、一人。ゲゼルの王、一人。 12:13 デビルの王、一人。ゲデルの王、一人。 12:14 ホルマの王、一人。アラドの王、一人。 12:15 リブナの王、一人。アドラムの王、一人。 12:16 マケダの王、一人。ベテルの王、一人。 12:17 タプアハの王、一人。ヘフェルの王、一人。 12:18 アフェクの王、一人。シャロンの王、一人。 12:19 マドンの王、一人。ハツォルの王、一人。 12:20 シムロン・メロンの王、一人。アクシャフの王、一人。 12:21 タアナクの王、一人。メギドの王、一人。 12:22 ケデシュの王、一人。カルメルのヨクネアムの王、一人。 12:23 ドルの高地の、ドルの王、一人。ギルガルのゴイムの王、一人。 12:24 ティルツァの王、一人。全部で三十一人の王である。     神はイスラエルに勝利を記録させられた。記録という行為には、明確な機能と意味がある。信仰の記録とは、事務的な作業ではなく、神の証しをこの世界に残す行為である。私たちが読んできたカナン征服の物語には、人間の戦略や技術は存在しなかった。そこにあったのは、神ご自身が捕らえられた王、神が開かれた道、神が行われた御業だけである。信仰は感情の上に築かれるものではなく、神が通られた道――その「記憶」の上に築かれる。ゆえに、記憶しなければ信仰は道を失い、しばしばその基盤を喪失する。証しとは武勇談ではない。神が現れ、神が統治された事実の記録である。証しをもたない信仰は存在せず、その主語は常に、そして必ず、神である。 過去の記憶は現在を支える力となり、未来の境界を押し広げる原動力となる。イスラエルが王を一人倒すたびに広がったものは土地ではなく、神の主権が認められる霊的空間であった。宣教も同じである。宣教とは、神の主権を拡大する働きである。神が統治される領域が広がる時、人間の限界は崩れ、共に拡張される。すなわち、神の主権の拡大に献身する者は、自分自身の限界も現実の限界も超えていく証しを経験することになる。恐れ、傷、失敗、拒絶、限界だと考えていたものが、以前に現れてくださった神の記憶の前でよみがえり、再び自分の位置へと集まってくる。 だからこそ、今日も私は記録する。書きながら、もう一度噛みしめ、再解釈する。長くなり、複雑になった物語の中で、その意味を再構成する。その作業の中で、私は知らなかった神を、新しい自分を再発見する。その過程において、神はさらにダイナミックに迫ってこられ、私の神が大きくなればなるほど、私は自由になる。神が高められるとき、私を閉じ込めていた限界も崩れていく。記録をやめれば、証しも止まる。神がどこまで来られたかを記録によって確かめる者だけが、神がどこまで行かれるのかを思い描くことができる。書け、という要求は、読め・聞け・語れ、という要求よりも、いつも激しく拒絶される。しかし、それでもなお、書かなければならないと言い続けるしかない。…

여호수아 묵상 【쓰지 않는데 안다는 거짓말】 20251203(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

여호수아 12:1~24 12:1 이스라엘 자손이 요단 저편 해 돋는 편 곧 아르논 골짜기에서 헤르몬산까지의 동방 온 아라바를 점령하고 그 땅에서 쳐 죽인 왕들은 이러하니라 12:2 헤스본에 거하던 아모리 사람의 왕 시혼이라 그 다스리던 땅은 아르논 골짜기 가에 있는 아로엘에서부터 골짜기 가운데 성읍과 길르앗 절반 곧 암몬 자손의 지경 얍복강까지며 12:3 또 동방 아라바 긴네롯 바다까지며…

여호수아 묵상 【그 땅에 전쟁이 그쳤더라】 20251202(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

여호수아 11:16~23 11:16 여호수아가 이같이 그 온 땅 곧 산지와 온 남방과 고센 온 땅과 평지와 아라바와 이스라엘의 산지와 그 평지를 취하였으니 11:17 곧 세일로 올라가는 할락산에서부터 헤르몬산 아래 레바논 골짜기의 바알갓까지라 그 모든 왕을 잡아 쳐죽였으며 11:18 여호수아가 그 모든 왕과 싸운 지는 여러 날이라 11:19 기브온 거민 히위 사람 외에는 이스라엘 자손과 화친한…

ヨシュア 黙想 【その地に戦争はやんだ】 20251202(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨシュア 11:16~23 11:16 ヨシュアはこの全地、すなわち、山地、ネゲブの全地域、ゴシェンの全土、シェフェラ、アラバ、イスラエルの山地とそのシェフェラを奪い取った。 11:17 彼は、セイルへ上って行くハラク山から、ヘルモン山のふもとの、レバノンの谷にあるバアル・ガドまでを攻め取った。その王たちをことごとく捕らえ、彼らを討って殺した。 11:18 長い間にわたってヨシュアはこれらすべての王たちと戦った。 11:19 ギブオンの住民であるヒビ人以外に、イスラエルの子らと和を講じた町は一つもなかった。イスラエルの子らは戦って、すべてを奪い取った。 11:20 彼らの心を頑なにし、イスラエルに立ち向かって戦わせたのは、主から出たことであった。それは、彼らを容赦なく聖絶するため、主がモーセに命じられたとおりに彼らを根絶やしにするためであった。 11:21 そのときヨシュアは行って、アナク人を山地、ヘブロン、デビル、アナブ、ユダのすべての山地、イスラエルのすべての山地から断った。その町々とともにヨシュアは彼らを聖絶した。 11:22 こうしてアナク人は、イスラエルの子らの地には残らなかった。ただガザ、ガテ、アシュドデに残るのみとなった。 11:23 ヨシュアはすべて主がモーセに告げられたとおりに、その地をことごとく奪い取った。ヨシュアはこの地を、イスラエルの部族への割り当てにしたがって、相続地としてイスラエルに与えた。そして、その地に戦争はやんだ。     ついに征服の戦いは終わり、神は約束どおりカナンをイスラエルの所有として与えられた。イスラエルは長い時間、苦労を味わったが、戦いの主体は一貫して神であり、イスラエルが背負った苦労は勝敗を担う「主体的な苦労」ではなく、神のことばに従う「従順の苦労」であった。すべての責任を抱え、自分たちの力で勝ち取ったのではなく、戦われたのは神であり、民はただ従ったにすぎない。 ヨシュアのカナン征服を単なる物語として読めば、面白い昔話で終わってしまうかもしれない。しかし、この物語の骨格は「神の勝利」と「イスラエルの従順」、そしてその上に置かれた「契約」という構造である。神の根拠は約束であり、その約束が成就する絶対条件は全き従順であった。イスラエルの従順が確かめられたとき、神は圧倒的な勝利を与えられ、戦いは終わり、報いと安息が続いた。 重要なのは、この物語を自分の人生の現実に重ねて見ることである。果たして私には、神からいただいた約束があるのだろうか。それは個人的で人格的、そして秘められたものだ。みことばと自分との間に個人的で人格的な交わりがない人に、神との契約があるはずがない。彼らが語る約束の多くは他人から聞いたものであり、自分の言葉と生活では何ひとつ説明できない。宗教的な言葉を使ってはいても、神との「契約書」を持っていないのと同じである。 約束があるなら従順が伴わなければならない。従順は消極的な追従ではない。自分を否定し、神を認める積極的な決断である。神を信じるとは、神でないものを信じないという意味である。したがって、自分自身も信じてはならない。自分を疑い、否定し、手放さなければならない。自分の力で挑戦し何かを成し遂げようとする努力よりも、従順のほうがむしろ大きな勇気を必要とするだろう。その従順は、信仰なしには真似できないものだからである。 契約と従順、この二つを確かめないままでは、ヨシュアの勝利を正しく読むことはできない。読んでみても他人の話、昔話で終わってしまう。私は神と契約を持っているのか。自分の判断を否定し、非現実的に見える神のみことばに従って、すべての選択と決断をすることができるのか。その答えは、みことばの世界に入り、神に告白する中で見えてくる。神との対話の仕方を知らなければ、契約と従順は居場所を見つけることができないだろう。ヨシュアのカナン征服記は戦争の物語ではなく、みことばに従って生きる「従順の人々」の物語なのである。