ヨシュア 黙想 【Levi’s】 20251218(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨシュア 21:1~7 21:1 レビ人の一族のかしらたちは、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、そしてイスラエルの人々の部族の、一族のかしらたちのところに近寄って来て、 21:2 カナンの地のシロで彼らに告げた。「主は、住む町と家畜の放牧地を私たちに与えるよう、モーセを通して命じられました。」 21:3 イスラエルの子らは主の命により、自分たちの相続地から次の町々とその放牧地をレビ人に与えた。 21:4 ケハテ人諸氏族のためにくじが引かれた。ユダ部族、シメオン部族、ベニヤミン部族から、くじによって十三の町がレビ人の祭司アロンの子らのものになった。 21:5 エフライム部族の諸氏族、ダン部族、マナセの半部族から、くじによって十の町が、残りのケハテ族のものになった。 21:6 イッサカル部族の諸氏族、アシェル部族、ナフタリ部族、バシャンのマナセの半部族から、くじによって十三の町がゲルション族のものになった。 21:7 ルベン部族、ガド部族、ゼブルン部族から、十二の町がメラリ人の諸氏族のものになった。   イスラエル共同体は、土地の分配によって財産を所有することになり、所有はやがて比較と計算、欲望と対立を生み出すことになる。すでに諸部族の間では不満と要求がぶつかり合っていた。そのような状況の中で、レビ族は土地という所有を与えられなかった。レビ人であっても、人間的な意味での相対的な剥奪感がまったくなかったとは言い切れないだろう。レビ族は土地を所有することはできなかったが、居住地を求めた。土地を所有しないこともまた約束であり、農地を耕す生産労働に携わらなくても、住まいと生活が共同体の中で保障されることも約束であった。 レビ人に土地を嗣業として与えなかったのは、所有の構造の中で必然的に生じる貪欲さや、宗教的権威の世俗化をあらかじめ制限しようとする神の先制的な意図であったのだろう。レビ人は働かなかったのではなく、生産労働を行わず、それによって財産を蓄積しなかったのである。彼らが担ったのは、礼拝と律法、そして共同体の秩序を管理するという別のかたちの労働であった。その存在は、定住農耕社会へと移行していくイスラエルが、経済論理だけによって成り立つ共同体ではないことを絶えず思い起こさせる役割を果たしていた。皮肉なことに、「リーバイス(Levi’s)」という名はレビの名に由来し、所有と消費を象徴するブランドとなったが、聖書におけるレビは、むしろ所有しないことによって共同体の中心を支えていた存在であった。 もしレビに代表される聖職が、宗教的権威と経済的富とを同時に握るならば、信仰は管理の対象となり、宗教は産業へと変質してしまうだろう。私たちが記憶している歴史は、すでにその試行錯誤を通過してきた歴史でもある——この表現を過去形で用いてよいのか、ためらいは残るが。だからこそ神はレビに土地を与えず、くじによって人間の計算や交渉の論理が入り込む余地を断たれたのである。レビ人をすべての部族の中に分散して住まわせたのも、宗教的権力が一箇所に集中する構造を、あらかじめ解体するためであった。 歴史の中で、カトリック教会は同じ問題に対して別の方法で取り組んだ。司祭の結婚を制限したのは、霊性と献身を守るための選択であったが、それと同時に、聖職が所有や世襲の論理へと流れていくことを防ごうとする配慮の結果でもあった。しかし、制度が人間の本能を抑えようとするとき、その副作用を完全に避けることはできない。抑制は歪みを生み、遮断は別の亀裂を生み出す。 プロテスタントは、聖職者の結婚と家庭、そして社会的権利を相当程度回復した。その結果、信仰は日常の生活により近づいたが、同時に聖職と所有が結びつくことによる新たな危険にもさらされることになった。完全な答えを見出したわけではないが、一つの現実だけは明らかになった。人間の欲望を完全に制御できる制度は存在しない、ということである。結局のところ、召された者が今どこに立っていようとも、その制度の隙間のどこかで、「神こそが私の嗣業である」という思いを抱く人々によって、みことばと礼拝は今日も受け継がれていくのである。

여호수아 묵상 【Levi’s】 20251218(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

  여호수아 21:1~7 21:1 때에 레위 사람의 족장들이 제사장 엘르아살과 눈의 아들 여호수아와 이스라엘 자손의 지파 족장들에게 나아와 21:2 가나안 땅 실로에서 그들에게 말하여 가로되 여호와께서 모세로 명하사 우리의 거할 성읍들과 우리의 가축 먹일 그 들을 우리에게 주라 하셨었나이다 하매 21:3 이스라엘 자손이 여호와의 명을 따라 자기의 기업에서 이 아래 성읍들과 그 들을 레위 사람에게…