クリスマス黙想 【戦場の幼子】 20251223(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
イザヤ 9:1~7 9:1 しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。 9:2 闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。 9:3 あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられる。彼らは、刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜ぶ。 9:4 あなたが、彼が負うくびきと肩の杖、彼を追い立てる者のむちを、ミディアンの日になされたように打ち砕かれるからだ。 9:5 まことに、戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食となる。 9:6 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。 9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。 イザヤが語る「闇」は、一見すると政治的なもののように見える。しかし実際には、政治的敗北や植民地的被支配状態そのものを指しているのではない。戦場のような背景とは、破壊され、支配されてしまった人間の内的状態を意味しているのである。「死の陰の地」とは、死の論理が人生全体を支配している現実である。闇とは政治的現実ではなく、人間の現実に対する認識が、もはや希望を持つことのできない状態を指す。それは自分自身についての、歓迎したくもなく、できれば避けたい知である。しかし、絶望という自己認識を前提としない救いは存在しない。 これと対照的に現れる「大いなる光」もまた、体制改革や政治的解決策ではない。そのように言えるのは、続いて語られる出来事のゆえである。「ひとりの幼子が、わたしたちのために生まれた。」幼子という存在は、その始まりからして、武力や暴力を拒否している。光は闇を打ち砕くのではなく、その本質において闇を光へと変えていく。光は闇と戦わない。ただ光として存在するだけである。この光は、自己認識を欠いたまま抱く根拠なき楽観主義ではない。人間の絶望という部屋を、外側から照らし出す、具体的で現実的な救いの光である。 メシアの統治は、権力の秩序の上に成り立つものではない。その誤解は、すでにイエスが自ら払拭し、結論づけて行かれた。イザヤもまた、政治的解法を提示しようとしたのではない。 「不思議な助言者」であり「助言者」ではあるが、帝国のための戦争戦略家ではなく、神でありながら幼子の姿を取っている。「平和の君」は、暴力によって平和を作り出すことはない。戦場のような、人間が自壊していく現実のただ中へ、神は幼子として入り込まれたのである。もはや、クリスマスを「知っている」とは言えないだろう。毎年、変化し、より深められていく自己認識こそが、クリスマスとは何であるかを証しするのである。


