ヨシュア記 黙想 【功績意識と恵み意識】 20251229(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
ヨシュア 24:1~13 24:1 ヨシュアはイスラエルの全部族をシェケムに集め、イスラエルの長老たち、かしらたち、さばき人たち、つかさたちを呼び寄せた。彼らが神の前に立ったとき、 24:2 ヨシュアは民全体に言った。「イスラエルの神、主はこう告げられる。『あなたがたの父祖たち、アブラハムの父でありナホルの父であるテラは昔、ユーフラテス川の向こうに住み、ほかの神々に仕えていた。 24:3 わたしはあなたがたの父祖アブラハムを、あの大河の向こうから連れて来てカナンの全土を歩かせ、子孫を増し、イサクを与えた。 24:4 そして、わたしはイサクにヤコブとエサウを与え、エサウにはセイルの山地を与えてそれを所有させた。一方、ヤコブと彼の子たちはエジプトに下った。 24:5 わたしはモーセとアロンを遣わし、エジプトに災害を下した。わたしがそのただ中で行ったとおりである。その後、わたしはあなたがたを導き出した。 24:6 わたしはあなたがたの父祖たちをエジプトから導き出した。あなたがたが海まで来たとき、エジプト人は、戦車と騎兵であなたがたの父祖たちを葦の海まで追いつめた。 24:7 彼らは主に叫び求め、主はあなたがたとエジプト人の間に暗闇を置き、海に彼らを襲わせ、彼らをおおわせた。あなたがたの目は、わたしがエジプトで行ったことを見た。そして、あなたがたは長い間、荒野に住んだ。 24:8 わたしは、ヨルダンの川向こうに住んでいたアモリ人の地に、あなたがたを導き入れた。彼らはあなたがたと戦ったが、わたしは彼らをあなたがたの手に渡し、あなたがたは彼らの地を占領した。わたしはあなたがたの前から彼らを一掃した。 24:9 モアブの王、ツィポルの子バラクは立ってイスラエルと戦い、あなたがたを呪うために、人を遣わしてベオルの子バラムを呼び寄せた。 24:10 しかし、わたしはバラムに耳を傾けようとしなかった。彼はかえって、あなたがたを祝福し、こうして、わたしはあなたがたをバラクの手から救い出した。 24:11 あなたがたはヨルダン川を渡り、エリコに来た。エリコの住民やアモリ人、ペリジ人、カナン人、ヒッタイト人、ギルガシ人、ヒビ人、エブス人はあなたがたと戦った。しかし、わたしは彼らをあなたがたの手に渡し、 24:12 あなたがたの前にスズメバチを送ったので、スズメバチがアモリ人の二人の王をあなたがたの前から追い払った。あなたがたの剣にもよらず、あなたがたの弓にもよらなかった。 24:13 わたしは、あなたが労したのではない地と、あなたがたが建てたのではない町々をあなたがたに与えた。あなたがたはそこに住み、自分で植えたのではない、ぶどう畑とオリーブ畑から食べている。』 これはヨシュアの最後の説教である。ヨシュアは自分の考えを語るのではなく、神の声をそのまま伝える形で、厳粛かつ断固として語る。彼はアブラハムにまで遡り、イスラエルの歴史全体を網羅しながら、神がイスラエルに対して何をしてこられたのかを思い起こさせる。振り返り、記憶し、解釈しなければ、全体を見渡すことも、真の洞察に至ることもできない。イスラエルは寄留者であったアブラハムから始まり、奴隷となり、荒野をさまよい、そして今、勝利した民としてカナンに定住するに至ったのである。 しかし神は、それが彼らの実力によるものではないことを、はっきりと指摘される。アブラハムをメソポタミアから呼び出されたのも、奴隷の地エジプトから導き出されたのも、荒野で養われたのも、カナンを征服させたのも神ご自身であった。イスラエルの歴史全体は、人間の努力の物語ではなく、神の積極的かつ主権的な介入によって貫かれた歴史である。だからこそ神はヨシュアを通して、「あなたがたが労苦しなかった地、建てなかった町、植えなかったぶどう畑とオリーブの木を与えた」と語られるのである。 もちろん、イスラエルにまったく労苦がなかったわけではない。何もせずに座って土地を得たのではない。身をもって危険をくぐり抜け、実際に戦いも経験してきた。奴隷と難民の歴史を経てきたイスラエルは、今、勝利の喜びに満たされ、初めて味わう所有の可能性に胸を躍らせている。土地は分配され、彼らは家を建て、町を整え、ぶどう畑とオリーブの木を植え、その実りによって生きていく希望に満ちている。 しかし神は、彼らの労苦をまず称賛されるのではなく、その成功の理由が神ご自身であることを先に明らかにされる。神は彼らの労苦を否定しているのではない。問題は、従順と労苦が功績意識へと変質してしまうことにある。功績意識が毒キノコのように芽を出し始めると、人は容易に順序を逆転させる。恵みは背景に退き、人間の選択と意志が物語の主役になっていく。過去は歪められ、歴史の主語はすり替えられてしまう。 だからこそ、証しを語る者は注意しなければならない。証しが次第に膨らむにつれて、文の主語が神から自分自身へと変わっていくからである。神と歴史の前における謙遜な文法とは、恵みが主語となり、功績が目的語となることである。「恵みでした」と謙遜を装って言うことではなく、恵みなしには何一つ成し得なかったという致命的な自己認識を、記憶し、認め、告白することによってこそ、勝利の人生の次の段階へと進むことができる。神はイスラエルの労苦を否定しているのではない。彼らが登ったその段でつまずかないように、固く結び留めておられるのである。


