요한복음 묵상 【미움받을 용기】 20250123(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 7:1~13 7:1 이 후에 예수께서 갈릴리에서 다니시고 유대에서 다니려 아니하심은 유대인들이 죽이려 함이러라 7:2 유대인의 명절인 초막절이 가까운지라 7:3 그 형제들이 예수께 이르되 당신의 행하는 일을 제자들도 보게 여기를 떠나 유대로 가소서 7:4 스스로 나타나기를 구하면서 묻혀서 일하는 사람이 없나니 이 일을 행하려 하거든 자신을 세상에 나타내소서 하니 7:5 이는 그 형제들이라도 예수를 믿지…

ヨハネによる福音書 黙想 【霊的な人々】 20250122(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 6:60~71 6:60 これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」 6:61 しかしイエスは、弟子たちがこの話について、小声で文句を言っているのを知って、彼らに言われた。「わたしの話があなたがたをつまずかせるのか。 6:62 それなら、人の子がかつていたところに上るのを見たら、どうなるのか。 6:63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。 6:64 けれども、あなたがたの中に信じない者たちがいます。」信じない者たちがだれか、ご自分を裏切る者がだれか、イエスは初めから知っておられたのである。 6:65 そしてイエスは言われた。「ですから、わたしはあなたがたに、『父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのです。」 6:66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。 6:67 それで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と言われた。 6:68 すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。 6:69 私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」 6:70 イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかし、あなたがたのうちの一人は悪魔です。」 6:71 イエスはイスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二人の一人であったが、イエスを裏切ろうとしていた。 人々はイエス様が語られた「いのちのパン」に関する教えを理解することができませんでした。イエス様はそれをご存知で、「活かすのは霊であって、肉は何の役にも立たない」と再び強調され、肉体的な理解を超えて霊的な意味を悟るよう促されました。そして、まだ「霊的であること」の定義が確立されていなかった人々に対して、霊的世界の秩序について語られました。それは、霊的であることは神様の選びと恵みに基づくものであるということです。どのような人も神様の恵みなしにイエス様のもとに来ることはできないということです。霊的であることは、人間の理解や行動、また現象によるものではありません。 これは、霊的であることが奇跡を体験することや、生活の必要が満たされる祝福を受けることを意味するものではない、ということを教えられたのです。奇跡という神秘を霊的であると考えたり、献身という行動を霊的なことだと見なす人々の考えに対し、イエス様は異議を提起されたのです。奇跡そのものが必ずしも霊的であるとは限りません。それは人間の目には不思議に映る別の現象の一つである場合もあります。同様に、人間が何らかの目的を持って献身することも必ずしも霊的であるとは言えません。イエス様が語られた最も霊的なこととは、神様に選ばれ、召されたということを知ることです。そのような人々は霊的であるがゆえに、決してイエス様を離れません。 行為と結果の因果関係を超えて考えることができなかった人々は、イエス様の霊的な解説を理解することができず、一人また一人と去っていきました。そのときイエス様は十二弟子に「あなたがたも離れて行きたいか」と問われました。それに対しペテロは、「主よ、永遠のいのちのことばを持っておられるのはあなたです。私たちはあなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」と告白し、イエス様を離れないと答えました。人々は奇跡という現象や献身という行為の中に、自分の信仰の確認を求めました。しかし、イエス様が教えられる霊的であることとは、ただ神様から始まることを認めることです。 さらにイエス様は、イスカリオテのユダが自分を裏切る者であることをあらかじめ告げられました。ユダは、今日イエス様が教えられた霊的であることの意味を理解できない人です。彼は神様の召しを悟ることができず、誘惑と疑いに揺れ動き、イエス・キリストを売りました。イエス様が行われた奇跡を見ることが霊的な神秘ではありません。群れの中でイエス様に従うこと自体も霊的であるとは言えません。救いの恵みは、ただ神様の召しによるものであり、それを知る人が霊的な人です。神様から始まる選びと贖いの神秘を知る人こそが、真に霊的な人なのです。

요한복음 묵상 【영적인 사람들】 20250122(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 6:60~71 6:60 제자 중 여럿이 듣고 말하되 이 말씀은 어렵도다 누가 들을 수 있느냐 한대 6:61 예수께서 스스로 제자들이 이 말씀에 대하여 수근거리는 줄 아시고 가라사대 이 말이 너희에게 걸림이 되느냐 6:62 그러면 너희가 인자의 이전 있던 곳으로 올라가는 것을 볼것 같으면 어찌 하려느냐 6:63 살리는 것은 영이니 육은 무익하니라 내가 너희에게 이른 말이…

ヨハネによる福音書 黙想 【まことの食べ物、まことの飲み物】 20250121(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 6:41~59 6:41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンです」と言われたので、イエスについて小声で文句を言い始めた。 6:42 彼らは言った。「あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。どうして今、『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか。」 6:43 イエスは彼らに答えられた。「自分たちの間で小声で文句を言うのはやめなさい。 6:44 わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。 6:45 預言者たちの書に、『彼らはみな、神によって教えられる』と書かれています。父から聞いて学んだ者はみな、わたしのもとに来ます。 6:46 父を見た者はだれもいません。ただ神から出た者だけが、父を見たのです。 6:47 まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。 6:48 わたしはいのちのパンです。 6:49 あなたがたの先祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。 6:50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがありません。 6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」 6:52 それで、ユダヤ人たちは、「この人は、どうやって自分の肉を、私たちに与えて食べさせることができるのか」と互いに激しい議論を始めた。 6:53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。 6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。 6:55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。 6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。 6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。 6:58 これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」 6:59 これが、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。 イエス様は五つのパンと二匹の魚の奇跡に関する対話の延長線上で、「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです」と宣言されました。五つのパンと二匹の魚を食べてもっとパンを求めてきた人々に対して、イエス様ご自身が天から下って来た生けるパンであり、そのパンを食べる者だけが永遠の命を得ることができると語られたのです。 人間に与えられるすべての食物は神様からのものです。出エジプトを経験した祖先たちは荒野で毎日のように神秘的な食物であるマナを食べましたが、それでも最終的には死にました。五つのパンと二匹の魚の奇跡は驚くべきものですが、それは一食分の食事に過ぎません。その後、再び空腹を覚えたことでしょう。どんな奇跡が起こったとしても、この地上で与えられる奇跡はすべて有限のものです。しかし、命のパンを食べることは、この地や肉体に属するものではなく、永遠に属する恵みなのです。それは永遠の命の恵みです。 ユダヤ人たちはイエス様が「私の肉と血を食べ、飲む」という言葉の意味を理解することができませんでした。イエス様の表現は象徴的なものでしたが、そのメッセージは直接的であり、圧倒的でした。ニコデモが「新しく生まれる」ということについて「もう一度母の胎内に入らなければならないのですか」と質問したように、人々はイエス様の言葉を肉を食べ血を飲むことと捉え、それを難解なものと感じたのです。 しかし、私たちはその意味を知っています。それはイエス様と一体となることを意味しています。イエス様に従うということは、食べ物を求めて群がることではなく、イエス様との一体を通して永遠の恵みを受けることです。イエス様はどこか遠くの上空におられる方ではなく、私たちの隣におられる方でもありません。過去に存在された方でも、未来にだけ存在される方でもありません。イエス様は今この瞬間、私の内におられ、私と一体となっておられるのです。 そのため、私たちは毎月第一主日に行うジャンチ礼拝において、主の聖餐を分かち合います。ある時、聖餐式が執り行われた際に、本来参加すべき方が参加されていない様子を見たことがあります。おそらく、その方は神様の前に自分がふさわしくないと感じ、罪深い自分の姿を思い、聖餐を遠慮されたのかもしれません。確かに聖餐式の際、「もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。コリント人への第一の手紙11:27」 という警告があります。 しかし、それでもなお、私たちはさらに聖餐に参加すべきです。それはイエス・キリストの裂かれた体と流された血によって、私たちの体と心を初期化するものだからです。私たちの血管の中にイエス様の血が流れ込み、内臓や全身にイエス様の肉が入り、一体となります。そのようにして信仰がリセットされるのです。自信がない時ほど、資格がないと感じる時ほど、悔い改めの心と慕い求める心を持って、聖餐の恵みにさらに深く与るべきです。2月3日に行われる主の聖餐を心から待ち望みます。

요한복음 묵상 【참된 양식, 참된 음료】 20250121(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 6:41~59 6:41 자기가 하늘로서 내려온 떡이라 하시므로 유대인들이 예수께 대하여 수군거려 6:42 가로되 이는 요셉의 아들 예수가 아니냐 그 부모를 우리가 아는데 제가 지금 어찌하여 하늘로서 내려왔다 하느냐 6:43 예수께서 대답하여 가라사대 너희는 서로 수군거리지 말라 6:44 나를 보내신 아버지께서 이끌지 아니하면 아무라도 내게 올 수 없으니 오는 그를 내가 마지막 날에 다시 살리리라…

ヨハネによる福音書 黙想 【五つのパンと二匹の魚、その後】 20250116(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 6:22~40 6:22 その翌日、湖の向こう岸にとどまっていた群衆は、前にはそこに小舟が一艘しかなく、その舟にイエスは弟子たちと一緒には乗らずに、弟子たちが自分たちだけで立ち去ったことに気づいた。 6:23 すると、主が感謝をささげて人々がパンを食べた場所の近くに、ティベリアから小舟が数艘やって来た。 6:24 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないことを知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り込んで、イエスを捜しにカペナウムに向かった。 6:25 そして、湖の反対側でイエスを見つけると、彼らはイエスに言った。「先生、いつここにおいでになったのですか。」 6:26 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。 6:27 なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」 6:28 すると、彼らはイエスに言った。「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」 6:29 イエスは答えられた。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」 6:30 それで、彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をしてくださいますか。 6:31 私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。」 6:32 それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。 6:33 神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」 6:34 そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」 6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。 6:36 しかし、あなたがたに言ったように、あなたがたはわたしを見たのに信じません。 6:37 父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。 6:38 わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。 6:39 わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。 6:40 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」   イエス様が五つの大麦パンと二匹の魚の奇跡を行われた後、人々が再びイエス様のもとを訪れました。その際、イエス様はこの奇跡の意味を説明されました。五つの大麦パン、二匹の魚、そして五千人の食事という数字よりも重要なのは、神様がどのような状況においても無限に供給することができるお方であることを認めることです。この奇跡の目的は、一食を満たすためではなく、神様を悟らせるためのものです。 人々は、荒野で五千人を養うことができる経済的な力を持つイエス様を王にしようとしました。多くの人々が政治的正義を口にしても、結局のところ、経済的利益をもたらさない政治指導者を許さないものです。黄金の卵を見て目がくらんだ人が、黄金の卵を産むガチョウのお腹を裂いた話のように、人々は奇跡を目にしても神様を見ず、その奇跡の出所を裂いて自分のものにしようとします。さらに多くの供給、継続的な供給を求めますが、神様に近づこうとはしません。経済的な祝福を受け、土地と畑を買うと忙しくなり、御言葉や交わりの時間がますます失われてしまうからです。 イエス様は彼らの動機を指摘してこう言われました。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。6:26)」パンを食べて満腹したのなら、もはやお腹を満たすこと以外のことに関心を持つべきだと思われます。満腹したライオンが目の前を餌が通り過ぎても狩りをしないように。しかし、人間は違います。人間の欲は尽きることがなく、経済的な必要が満たされても、さらなる利益を求めてさらに悪い道を進んでいきます。 そのため、イエス様は「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。」と言われました。経済は人間らしい生活を送るために欠かせない手段であり、それを通じて神の国を建て広げ、隣人を仕えるための道具でもあります。しかし、人々は奇跡の現象や結果にばかり執着し、その奇跡の原因であり実体であるイエス様との関係を見失ってしまいます。手段を用いて目的を達成するべきなのに、愚かにも手段そのものを目的としてしまうのです。 イエス様はご自身を「神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです 6:33」と言われました。神様を信じる人にとって、奇跡は驚くべきことではありません。それは、神様がこの地に人間に与えられた秩序を超越して働かれることが奇跡だからです。秩序も奇跡もすべて神様のうちにありますが、人間が注目すべきなのは目の前に現れた現象ではなく、それを通して目の前に現れてくださった神様ご自身です。 イエス様は「わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。6:35」と言われました。経済的祝福を受けた後の人生は、この真理を覚えながら生きることです。飢えた人々に食べ物を与えられたのは、飢え乾いている魂に恵みを与えるためでした。命の源泉は経済的所有や安定ではなく、それらをお与えになるイエス様を知ることです。私たちは与えられたものに仕えるのではなく、それを与えてくださるお方のみに仕えるのです。

요한복음 묵상 【오병이어 그 후】 20250120(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 6:22~40 6:22 이튿날 바다 건너편에 섰는 무리가 배 한척 밖에 다른 배가 거기 없는 것과 또 어제 예수께서 제자들과 함께 그 배에 오르지 아니하시고 제자들만 가는 것을 보았더니 6:23 (그러나 디베랴에서 배들이 주의 축사하신 후 여럿이 떡 먹던 그 곳에 가까이 왔더라) 6:24 무리가 거기 예수도 없으시고 제자들도 없음을 보고 곧 배들을 타고 예수를…

ヨハネの福音書 黙想 【聖書の結論】 20250118(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨハネの福音書 5:39-47 5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。 5:40 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。 5:41 わたしは人からの栄誉は受けません。 5:42 しかし、わたしは知っています。あなたがたのうちに神への愛がないことを。 5:43 わたしは、わたしの父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受け入れません。もしほかの人がその人自身の名で来れば、あなたがたはその人を受け入れます。 5:44 互いの間では栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたが、どうして信じることができるでしょうか。 5:45 わたしが、父の前にあなたがたを訴えると思ってはなりません。あなたがたを訴えるのは、あなたがたが望みを置いているモーセです。 5:46 もしも、あなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことなのですから。 5:47 しかし、モーセが書いたものをあなたがたが信じていないのなら、どうしてわたしのことばを信じるでしょうか。」  聖書は長い間、聖霊の霊感を受けた多くの著者たちを通して記録され、その聖霊の働きによって現在の新旧約66冊の聖書が完成されました。 しかし書き取りのように記録されたものではなく、一人ひとりの著者たちの背景と個性を生かして記録させたもので、その背景も個性も様々です。    しかし、そのように完成された66冊が持つ一つの共通点があります。 それは、イエス・·キリストを示しているということです。 時代が違い、文化も違う、背景も違う、イエス・·キリストを示している方法はそれぞれ違うとしても、結局その結論はイエス・·キリストになります。    これは単に著者の意図に限るものではありません。 その聖書を読む読者にも同じく、常にその結論はイエス・·キリストでなければなりません。 読者各自がそれぞれの重点と解釈を持って聖書を読んでも構いませんが、結局その結論がイエス・·キリストに至らなければ、それは核心を見逃したまま、誤った結論に至ることになってしまいます。    ユダヤ人の律法学者は、だれよりも旧約聖書に詳しい者たちでした。 長い間聖書を研究し、そのような研究を通して数多くの律法を制定し、その律法を守ることによって自分たちが救われると信じていました。 彼らが読んで研究してきた聖書の結論に、イエス・·キリストは存在しませんでした。    そのような彼らを訴える者が、モーセです。 彼らが研究して守っていた律法の基礎になった人、彼らが最も尊敬する人物であり、聖書の著者の一人であるモーセが、読者である律法学者たちに向かって’あなたがたは誤った理解を持って聖書を読んでいる’と訴えるのです。    このようなことは私たちにも十分に起こりうることです。 私たちが聖書の中でイエス・·キリストを見つけるのではなく、何かの教訓を見つけることで終わるならば、聖書の著者である聖霊が私たちを訴えるでしょう。 しかし、逆に私たちが聖書を通してイエス・·キリストを知りたいと思うならば、聖霊はいくらでも私たちにご自分の御言葉を通してイエス・·キリストを証言してくださいます。 https://youtu.be/DXNhYhfQOZU?si=qJNGmPkf27dKCe3c

요한복음 묵상 【성경의 결론】 20250118(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

요한복음 5:39-47 5:39 너희가 성경에서 영생을 얻는 줄 생각하고 성경을 연구하거니와 이 성경이 곧 내게 대하여 증언하는 것이니라 5:40 그러나 너희가 영생을 얻기 위하여 내게 오기를 원하지 아니하는도다 5:41 나는 사람에게서 영광을 취하지 아니하노라 5:42 다만 하나님을 사랑하는 것이 너희 속에 없음을 알았노라 5:43 나는 내 아버지의 이름으로 왔으매 너희가 영접하지 아니하나 만일 다른 사람이…

ヨハネの福音書 黙想 【最も確かな証言】 20250117(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨハネの福音書 5:30-38 5:30 わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。 5:31 もしわたし自身について証しをするのがわたしだけなら、わたしの証言は真実ではありません。 5:32 わたしについては、ほかにも証しをする方がおられます。そして、その方がわたしについて証しする証言が真実であることを、わたしは知っています。 5:33 あなたがたはヨハネのところに人を遣わしました。そして彼は真理について証ししました。 5:34 わたしは人からの証しを受けませんが、あなたがたが救われるために、これらのことを言うのです。 5:35 ヨハネは燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で大いに喜ぼうとしました。 5:36 しかし、わたしにはヨハネの証しよりもすぐれた証しがあります。わたしが成し遂げるようにと父が与えてくださったわざが、すなわち、わたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証ししているのです。 5:37 また、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださいました。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたことも、御姿を見たこともありません。 5:38 また、そのみことばを自分たちのうちにとどめてもいません。父が遣わされた者を信じないからです。  イエス様を証しするということは、すべてのキリスト者の使命であります。 しかし、私たちが各自の経験、または誰かの話を通して、イエス様を証しすることがどれほど難しいことであるか、その人たちが救われるためにするということがどれほど難しいことなのかを良く知っています。    本来、証言というのは当事者以外の誰かがしてくれないと、その信憑性は認められません。 いくら自分で証言をしたとしても、その証言は信頼されないのが当然です。 それならば、今日の箇所のイエス様もそのような理由で自分を証言せず、父なる神様にその証言を任せたのでしょうか。    イエス様は信頼されていないから、または証人が足りないから、仕方なく父に証言を頼んだわけではありません。 イエス様に必要だった証言は多くの人々の証言でもなく、最も確かな一つの証言だったからです。 そしてそれがまさに自分を遣わした方、もっと遡ると、この世を創造した方であり、この世が造られる前からイエス様と愛の関係にあった父なる神様の証言だったのです。    人の証言というものは、実際のことと変わってしまいます。 意図的に変えることも、わざとではなくても、自分が見て経験したものをそのまま、完全に記憶すると同時に、主観をすべて排除して証言できる人は一人もいません。 そのため、現代に最も信憑性のある証拠とされるのは証人の証言ではなく、客観的な資料、事実が記録されている映像や文書などの資料です。    そうであれば、この世の裁判でさえ証人の席を他の資料に譲るしかなかった私たちが、どのようにイエス様を人々に証言することができるでしょうか。その答えが今日の箇所にあります。    普通の人なら、決して認められない自らの証言は、イエス様ならできるはずです。 父なる神様の証言まで行かなくても、その息子であり、三位一体の神様であるイエス様の証言も同じように最も確かな証言です。 しかし、イエス様は今日の箇所を通して私たちにこの世にイエス・·キリストを証言する模範を見せてくださったのです。    イエス様に対する証言は、私たちの言葉と感情、表現などで美しく飾ったり、包んだりする必要はありません。 むしろそのようなことがイエス様の栄光を隠すことになるでしょう。 私たちはただイエス様がなさったことを聖書が証言している通り、そして御霊が私たちに証言してくださった通り、聖霊によって人々に証しをすれば良いのです。 それがまさにこの世にイエス・·キリストを証言する最も確かな証言になります。 https://youtu.be/3Z6jTJeF6RY?si=uQe9GyPpWGq61-s_