ヨハネの福音書 黙想 【思い出】 20250314(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨハネの福音書 21:1-14 21:1 その後、イエスはティベリア湖畔で、再び弟子たちにご自分を現された。現された次第はこうであった。 21:2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして、ほかに二人の弟子が同じところにいた。 21:3 シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言った。すると、彼らは「私たちも一緒に行く」と言った。彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった。 21:4 夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった。 21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」彼らは答えた。「ありません。」 21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。 21:7 それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言った。シモン・ペテロは「主だ」と聞くと、裸に近かったので上着をまとい、湖に飛び込んだ。 21:8 一方、ほかの弟子たちは、魚の入った網を引いて小舟で戻って行った。陸地から遠くなく、二百ペキスほどの距離だったからである。 21:9 こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。 21:10 イエスは彼らに「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われた。 21:11 シモン・ペテロは舟に乗って、網を陸地に引き上げた。網は百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったのに、網は破れていなかった。 21:12 イエスは彼らに言われた。「さあ、朝の食事をしなさい。」弟子たちは、主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねはしなかった。 21:13 イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。 21:14 イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自分を現されたのは、これですでに三度目である。  以前、ある講義の中で特別な経験をしたことがあります。その先生が学生たちに求めたのはこのようなことでした。「二人ペアになって、お互いのために祈る時間を持ってください。ただし、いつものように祈り課題を分かち合って祈るのではなく、互いの初めての出会いの時から、今までの思い出を振り返り、自ら相手のために祈ってみてください。」  私はすごく独特な祈り方だなと思いながらも、その方法がすごく気に入りました。ただ現実的で表面的な、いつの間にか定型文になってしまったお祈りではなく、心からその人のことを思いながら祈ることができ、相手との思い出を振り返ることで、これまでの自分と、今の自分のことを振り返ることができる時間であったからです。  このように、人間にとって‘思い出’とは、力強く、独特な力を持っています。当時は大したことではなかったかもしれない出来事が、振り返ってみれば大きく大切な出来事になっていたり、忘れられない瞬間になっていたり、当時は大きく感じられた出来事が、振り返ってみると大したことではなかったと感じたりします。そして、時には、当時も衝撃的だった出来事が、振り返ってみるとさらに衝撃的になることもあります。  このようなことを誰よりもよくご存知の神様は、時々この「思い出」を用いてご自分の人を立ち返らせ、成長させられます。その代表的な例が、今日の箇所のペテロです。  今日の箇所では、当時のシモン、今のペテロが初めてイエス様の弟子として召された時の姿をそのまま再現しています。後悔と悲しみに陥っていたペテロは、神様のみこころによって再び自分の最初の召しの瞬間、その思い出の時間と場所に呼ばれました。そして再び彼の前に、この場所で彼を召されたイエス様が現れました。  推測するに、この出来事はペテロにとって、イエス様の最初の召しの時よりも強烈に彼の心に刻まれたでしょう。初めて弟子として召された時よりも、さらに切実で確実に、使徒ペテロとしての召しに応えるようになったでしょう。  時々、イエス様への私たちの心が薄れていく時があります。そのような時、今までイエス様と共に過ごしてきた思い出を振り返ってみましょう。その時の喜びと感動、その時の決心は、これまでの思い出の時間を経て、さらに大きくなって私たちを迎えてくれます。また、後日、思い出として今を振り返ることになる時のために、今、神様との時間を大事にし、神様から与えられたものを存分楽しみながら生きていきましょう。 https://youtu.be/0ta5dCwn3ZE?si=kwm9VjR16Ve2aOiR

요한복음 묵상 【추억】 20250314(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

요한복음 21:1-14 21:1 그 후에 예수께서 디베랴 호수에서 또 제자들에게 자기를 나타내셨으니 나타내신 일은 이러하니라 21:2 시몬 베드로와 디무로라 하는 도마와 갈릴리 가나 사람 나다나엘과 세베대의 아들들과 또 다른 제자 둘이 함께 있더니 21:3 시몬 베드로가 나는 물고기 잡으러 가노라 하니 그들이 우리도 함께 가겠다 하고 나가서 배에 올랐으나 그 날 밤에 아무 것도 잡지…

ヨハネによる福音書 黙想 【見たから信じたのですか】 20250312(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 20:24~31 20:24 十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 20:25 そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。 20:26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。 20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 20:28 トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」 20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」 20:30 イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。 20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。   イエス様は復活され、弟子たちはすでにその姿を目撃し、トマスにその事実を伝えました。しかし、トマスは自分の目で見て手で触れて確かめるまでは信じることができないと言いました。イエス様はトマスのもとに来られ、それを確かめさせ、目で見させ、手で触れさせたうえで、このようにおっしゃいました。「あなたはわたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人たちは幸いである。」 イエス様は、目で見ることや手で触れることよりも、さらに重要な信仰の根拠があることを示しておられるようです。 弟子たちが伝えた情報よりも、もっと重要な根拠は御言葉です。トマスだけでなく、すべての弟子たちも、イエス様がすでに語られていたその御言葉を信じていませんでした。現実に戸惑っていただけでした。目の前にイエス様がいるのでその存在を認めてはいましたが、復活と福音を真に信じていたわけではありません。今、彼らの前におられるイエス様が何を意味するのか、まだ理解していませんでした。 神を信じるということは、神を目で見たり手で触れたりすることではなく、神の御言葉を通して神と出会うことです。福音もまた、見るものや触れるものではなく、神の約束を信じる信仰によって福音の中に入ることです。言い換えれば、聖霊が来てそれを悟らせてくださるときに、はじめて福音を理解し、信じることができます。私たちはトマスのように触れることもできず、直接見ることもできませんでしたが、それでもトマスと同じように聖霊が臨んでくださり、福音とは何かを悟るようになりました。その意味で、ヨハネの福音書20章の時点にいる弟子たちよりも、私たちのほうが福音をより深く理解し、正しく信じていると言えます。 トマスの時代の信者たちは、どれほど多くの苦難と迫害を受けながら、その福音を人々に証明しなければならなかったことでしょうか。この時代においても、自分自身を見つめ、イエス・キリストの十字架と復活の恵みを見出した人は幸いです。「あなたはわたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人たちは幸いである。」 私はこの言葉を叱責ではなく、預言として受け取りました。私たちの周りには、いまだに目で見ることも手で触れることもできない人々がたくさんいます。しかし、その中にも、信じる人々はまだ多く残されているのです。

요한복음 묵상 【본 고로 믿느냐】 20250313(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 20:24~31 20:24 열 두 제자 중에 하나인 디두모라 하는 도마는 예수 오셨을 때에 함께 있지 아니한지라 20:25 다른 제자들이 그에게 이르되 우리가 주를 보았노라 하니 도마가 가로되 내가 그 손의 못자국을 보며 내 손가락을 그 못자국에 넣으며 내 손을 그 옆구리에 넣어 보지 않고는 믿지 아니하겠노라 하니라 20:26 여드레를 지나서 제자들이 다시 집 안에…

ヨハネによる福音書 黙想 【聖霊を受けなさい】 20250312(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 20:11~23 20:11 一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。 20:12 すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。 20:13 彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」 20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。 20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」 20:16 イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。 20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」 20:18 マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。 20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」 20:20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。 20:21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」 20:22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」   マリアが墓の前で泣いていると、復活されたイエス様が現れました。マリアは復活されたイエス様を見ました。しかし、マリアはイエス様を一目で見分けることができませんでした。エマオへ向かう弟子たちも同じでした。しばらくイエス様と会話を交わしましたが、イエス様だとは気づきませんでした。 弟子たちはイエス様を認識できず、朝に空の墓を見ましたが、その状況を解釈することができませんでした。その日の夕方にも、弟子たちはイエス様の残党として逮捕されるのではないかと恐れていました。扉が閉まっているとき、扉を開けずに室内に入ってこられたイエス様は、弟子たちに復活された御体を見せ、確認させてくださいました。 弟子たちは喜びましたが、その感情は依然として超現実的で、困惑したままであるように思われます。見て経験しても、まだ信仰には至っていないようです。疑ったのはトマスだけではありませんでした。イエス様を実際に見た人々も、復活を理解できませんでした。 23節には、「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」と記されています。このような権威と使命を授けられたにもかかわらず、それに対する反応は記録されていません。 イエス様はその言葉を述べられる前に、聖霊を受けるようにと言われました。イエス・キリストが遣わされる霊なしには、イエス様を見分けることも、イエス様がなされたことを理解することもできません。目の前にしても信じることができません。しかし、聖霊を受けるならば、分かるようになります。思い出されるようになり、記憶と御言葉と現実が結びついて、復活を悟るようになるでしょう。そして、その復活と自分自身の関係も理解できるようになるのです。

요한복음 묵상 【성령을 받으라】 20250312(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 20:11~23 20:11 마리아는 무덤 밖에 서서 울고 있더니 울면서 구푸려 무덤 속을 들여다보니 20:12 흰 옷 입은 두 천사가 예수의 시체 뉘었던 곳에 하나는 머리 편에 하나는 발 편에 앉았더라 20:13 천사들이 가로되 여자여 어찌하여 우느냐 가로되 사람이 내 주를 가져다가 어디 두었는지 내가 알지 못함이니이다 20:14 이 말을 하고 뒤로 돌이켜 예수의 서신…

ヨハネによる福音書 黙想 【朝早くまだ暗いうちに】 20250311(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 20:1~10 20:1 さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。 20:2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」 20:3 そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。 20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。 20:5 そして、身をかがめると、亜麻布が置いてあるのが見えたが、中に入らなかった。 20:6 彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。 20:7 イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。 20:8 そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。 20:9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。 20:10 それで、弟子たちは再び自分たちのところに帰って行った。   安息日が過ぎ、墓を訪れた人々は空の墓を発見しました。マグダラのマリアが最初に見つけ、ペテロとヨハネが急いで駆けつけ、それを確認しました。ペテロは墓の中まで入り、内部の具体的な状態を見ました。ヨハネも後から入って、それを見て信じたと言われています。しかし、「信じた」という言葉は、イエス様の遺体がなくなっているという事実を認めた程度の意味であったでしょう。 しかし、弟子たちはただ不思議に思うだけで、喜びはおろか、ほとんど驚きすら感じていません。空の墓を見ても、そのまま家へ帰ってしまいました。著者ヨハネは現場で空の墓を確認した本人でありながら、ヨハネの福音書を書くにあたり、自分たちは主の復活を理解していなかったと記しています。空の墓は、イエスの死後に遺体を守ることができなかった悲しみの延長のようなものだったのでしょう。 空の墓という証拠があるのに、なぜ弟子たちは復活を理解せず、喜ぶことができなかったのでしょうか?弟子たちにとっても、私たちにとっても、イエス・キリストの復活はすでに成し遂げられた出来事です。復活信仰を持っていると言いながらも、復活が日常の喜びにならず、乾いた生活を送っている多くのクリスチャンがいることを考えると、不思議ではないのかもしれません。 最初に空の墓が発見されたのは、早朝のまだ暗いうちだったと言われています。復活の朝が来たにもかかわらず、彼らはなおも空の墓の前で暗闇の中にとどまっていました。空の墓と遺体の不在だけでは、復活の意味を理解することはできませんでした。ヨハネの福音書20章9節には「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった」と記されているように、復活を悟ることは物理的な証拠ではなく、救いに関する神の言葉を理解し、信じることから始まるのです。

요한복음 묵상 【이른 아침 아직 어두울 때】 20250311(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 20:1~10 20:01 안식 후 첫날 이른 아침 아직 어두울 때에 막달라 마리아가 무덤에 와서 돌이 무덤에서 옮겨간 것을 보고 20:02 시몬 베드로와 예수의 사랑하시던 그 다른 제자에게 달려가서 말하되 사람이 주를 무덤에서 가져다가 어디 두었는지 우리가 알지 못하겠다 하니 20:03 베드로와 그 다른 제자가 나가서 무덤으로 갈새 20:04 둘이 같이 달음질하더니 그 다른 제자가…

ヨハネによる福音書 黙想 【新しい墓、空の墓】 20250310(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 19:31~42 19:31 その日は備え日であり、翌日の安息日は大いなる日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に死体が十字架の上に残らないようにするため、その脚を折って取り降ろしてほしいとピラトに願い出た。 19:32 そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた一人目の者と、もう一人の者の脚を折った。 19:33 イエスのところに来ると、すでに死んでいるのが分かったので、その脚を折らなかった。 19:34 しかし兵士の一人は、イエスの脇腹を槍で突き刺した。すると、すぐに血と水が出て来た。 19:35 これを目撃した者が証ししている。それは、あなたがたも信じるようになるためである。その証しは真実であり、その人は自分が真実を話していることを知っている。 19:36 これらのことが起こったのは、「彼の骨は、一つも折られることはない」とある聖書が成就するためであり、 19:37 また聖書の別のところで、「彼らは自分たちが突き刺した方を仰ぎ見る」と言われているからである。 19:38 その後で、イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取り降ろすことをピラトに願い出た。ピラトは許可を与えた。そこで彼はやって来て、イエスのからだを取り降ろした。 19:39 以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た。 19:40 彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料と一緒に亜麻布で巻いた。 19:41 イエスが十字架につけられた場所には園があり、そこに、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。 19:42 その日はユダヤ人の備え日であり、その墓が近かったので、彼らはそこにイエスを納めた。 アリマタヤのヨセフはイエス様の弟子でありながら、その社会的地位のためか、表立って姿を現すことはなく、イエス様の埋葬の場面で登場します。どのような場合でもイエス様に従うと誓った弟子たちは四散しましたが、隠れていたアリマタヤのヨセフとニコデモがイエス様の埋葬を行いました。遠くからついて行った唯一の弟子ヨハネは、彼らがこのような行動を取るとは想像もできなかったでしょう。ヨハネには、ピラトにイエス様の遺体を要求するための面談すら叶わなかったでしょうし、埋葬する墓もなく、埋葬費用もありませんでした。影響力を持つ者たちであったからこそ可能であり、それが神様が弟子たちを制度の中に残された理由でもありました。 アリマタヤのヨセフは、自分のために準備していた新しい墓にイエス様を埋葬しました。墓とは遺体が入ってこそ墓となるものですが、まだ遺体が入っていない空間を墓と呼ぶのが正しいのかは分かりません。もちろん、埋葬のために準備された場所であり、これまで遺体が葬られたことがないという意味で「新しい墓」と呼ばれたのでしょう。イエス様はその新しい墓に葬られましたが、その墓は古い墓になることなく、依然として新しい墓のままでした。遺体が入り、腐敗することなく復活したため、その空間は墓であったことがありません。新しい墓と呼ばれたその場所は、死んだ肉体を処理する墓ではなく、復活の空間となりました。強調すべきなのは墓そのものではなく、「新しい」という修飾語なのです。 この墓には二つの修飾語がついています。一つは「新しい墓」、もう一つは「空の墓」です。「新しい」という形容詞と「墓」という名詞は馴染まず、「空の」という名詞と「墓」という名詞もまた矛盾しています。本来、墓には遺体が入るものなので、新しい墓というものは存在せず、空の墓という概念も矛盾しています。そもそも墓には修飾語は必要ありません。墓とは死を埋め、何も語らない場所だからです。しかし、この矛盾は逆説となりました。新しい墓は空の墓となり、死は空いてる場所として残りました。最初のアダムは墓に葬られましたが、第二のアダムは死を滅ぼし、墓を空にされました。アリマタヤのヨセフの新しい墓は、墓となることができなかった空の墓として、新しい命を生み出す復活の場となったのです。

요한복음 묵상 【새 무덤과 빈 무덤】 20250310(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 19:31~42 19:31 이 날은 예비일이라 유대인들은 그 안식일이 큰 날이므로 그 안식일에 시체들을 십자가에 두지 아니하려 하여 빌라도에게 그들의 다리를 꺾어 시체를 치워 달라 하니 19:32 군병들이 가서 예수와 함께 못박힌 첫째 사람과 또 그 다른 사람의 다리를 꺾고 19:33 예수께 이르러는 이미 죽은것을 보고 다리를 꺾지 아니하고 19:34 그 중 한 군병이 창으로…